ここまで、秀吉・官兵衛主従の「動機」について考察してきた。では、実際に2人が光秀に謀叛を唆した「本能寺の変の黒幕」であった可能性はどれだけあるのか――。史実を突き詰めていけば、物的証拠は皆無であり、「考えにくい」と言わざるをえない。
一番のネックは、羽柴軍が天正10年3月より備中に出陣している点だ。謀叛という決死の行動を起こす以上、秀吉、官兵衛が光秀と直接綿密に話し合う必要がある。
しかし、毛利軍との戦いに忙殺されていた秀吉は、光秀と連携をとれる状況にはなかった。同年正月に安土城で秀吉、光秀ともに信長に呼び集められているが、当時の織田家の焦点は武田氏攻めであり、何よりも信長の膝元で謀叛の話し合いができるとは思えない。
書状などで意見を交わした可能性も排除できないが、情報漏洩の危険性などを考えると、そう易々とはやり取りできないだろう。備中高松と京都――現代のように簡単に連絡を取り合えない距離が持つ意味は、極めて大きい。
しかし、一方で留意しなくてはならないのは、万一、秀吉・官兵衛主従が裏で糸を引いていたとすれば、彼らは物的証拠を残すような間抜けではないという点だ。超一流の忍者は、存在すら相手に知られてはならず、その名は後世に残らない。
同様に、秀吉・官兵衛という稀代の主従が一世一代の策を打ったのならば、証拠を残さぬよう徹底的にシミュレーションをしたに違いない。特に、情報通で知られる官兵衛が、後世の我々に簡単に突きとめられるような“ヘマ”をするはずがないだろう。
また、私かふと夢想してしまうのは、秀吉と官兵衛が本能寺の変の黒幕でなかったとしても、2人はいずれ同じような「凶行」に及んだのではないか、ということだ。
秀吉と官兵衛にとって信長の存在は日に日に重く、目障りなものとなってきていた。その意味では、たまたま光秀の方が衝突までの「限界点」を早く迎えただけであり、順番が入れ替わっていてもおかしくなかった。
そして、もし本能寺の変が起きていなければ、ないしは幸運にも信長が難を逃れていれば――私は姫路城が次なる「本能寺の変」の舞台になったのではないか、と想像する。
中国攻めにあたっていた秀吉は、本能寺の変前に信長に援けを求めており、信長は自ら出陣して総指揮を執ると答えている。本拠を置くとすれば、姫路城の他にない。ここで信長が、例の如く非道ぶりを発揮する可能性は高い。
「高松城の城兵を皆殺しにする」「毛利の領土のほとんどを没収する」「従順な対応を見せる小早川隆景は助命しても、反抗的な毛利輝元や吉川元春は処刑する」…。このような非情な「無理難題」は、毛利との間に入る秀吉・官兵衛の立場を無視するものだ。
ここに2人が「限界点」を迎えて、何がしかの決意を固める可能性はあっただろう。播磨周辺には、旧荒木家残党、旧別所家残党、旧波多野家残党など信長に恨みを持つ人間が無数にいる。官兵衛が姫路城で好機を見計らい、彼らに強襲するように唆せば…。実行は容易だったはずだ。
もちろんその場合は、事変を起こす前に、官兵衛自身が秀吉に「次期天下人」になる覚悟があるか、膝を突き合わせて確認した上でのことであろう。
誰もが羨むサクセスストーリーを歩んだ秀吉と、それを支えた官兵衛。主君・信長の死までも、その筋書きに入っていたら…。そうした想像の愉しさを与えてくれるのも、また本能寺の変の面白みのひとつかもしれない。
更新:11月22日 00:05