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日清戦争に込めた日本人の真の願い~「有道の国」を目指して

2014年05月30日 公開
2022年03月10日 更新

童門冬二(作家)

脈々と引き継がれた理想

さらに朝鮮では、弱体化する清を見限って、最大の脅威ともいうべきロシアにすがろうとする動きすら強まります。不凍港の租借を代償に、ロシアに軍事的に保護してもらう密約を結ぼうとした露朝密約事件も発覚しました。

そもそも日清戦争の最大の背景は、不凍港を獲得したいというロシアの南下政策にあります。ロシアが朝鮮半島を手中に収めたら、日本は抜き差しならぬ危機に直面することになります。清もこのような朝鮮の動きは看過できぬものでした。

かくして、朝鮮を独立させたい日本と、従属させたままでいたい清の戦争は、もはや避けられぬものとなっていったのです。

「西洋列強に対峙するために、華夷秩序に固執する清や朝鮮を目覚めさせ、朝鮮を『独立自尊』の国にする」―これが日本の願いでした。参謀本部を率いて日清戦争のグランドデザインを描いた川上操六も、「日本軍の砲声は、清の目覚めを促そうとする警鐘である。戦後の日本は進んで清と提携し、東亜の平和を維持せねばならぬ」と考えていたといいます。一種のショック療法ではありますが、当時の日本人の胸の中に「有道の国を目指す」という理想があったことを否定することはできません。日清戦争とは、このような理想を掲げて戦った「理想戦争」なのです。

だからこそ、福沢も内村鑑三もこの戦争を支持し、快哉を叫んだのです。もっとも、内村鑑三は、日清戦争後に日本が清に領土割譲と賠償金を求めたのを見て幻滅し、日露戦争では反戦の姿勢を貫くこととなりました。戦後の姿勢が「有道」だったか「無道」だったか、そこに日本の1つの岐路があったとはいえるかもしれません。

しかし、すべての人々が「独立自尊」の「有道の国」に生きるべきだという明治日本の理想が、その後にも脈々と引き継がれていったことも確かです。第一次世界大戦後のパリ講和会議では、日本は人種差別撤廃提案を敢然と主張しました。欧米諸国から冷たくあしらわれますが、これはまさに日本が「有道」を求めたものに他なりません。幕末の志士たちが抱いた「有道の国たらん」という想いは、その後も日本人の中に脈々と流れていたのです。

西洋列強の圧力が強かった明治の時代に、日本人がその理想を高らかに掲げ、行動したこと。その点で、日清戦争はまことに画期的な出来事であったと私は考えます。

著者紹介

童門冬二(どうもん・ふゆじ)

作家

1927年東京生まれ。東京都職員時代から小説の執筆を始め、’60年に『暗い川が手を叩く』(大和出版)で芥川賞候補。東京都企画調整局長、政策室長等を経て、’79年に退職。以後、執筆活動に専念し、歴史小説を中心に多くの話題作を著す。近江商人関連の著作に、『近江商人魂』『小説中江藤樹』(以上、学陽書房)、『小説蒲生氏郷』(集英社文庫)、『近江商人のビジネス哲学』(サンライズ出版)などがある。

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