2011年03月31日 公開
2022年06月15日 更新
南北朝の時代は、土地の支配においても大きな変化がありました。鎌倉時代までは、幕府が認めた御家人が土地を治めていましたが、一方では公家や寺社の荘園も多く残っていました。しかし、これらの荘園は次第に在地の武士によって支配され、実質的な領主が守護と主従関係を結ぶようになります。
そうした新興勢力をうまく取り込んで実力をつけた武士の中から、転換期の社会風潮を体現して「ばさら大名」と称される者が現われるのです。その3傑として挙げられるのが、足利尊氏に執事として仕えた高師直(こうのもろなお)、美濃の土岐頼遠(ときよりとお)、そして近江の佐々木道誉(ささきどうよ)でした。
足利政権で権勢を誇った高師直は、奢侈を極めた邸宅に住み、他の武将や貴族の婦人に手を出すなど、目に余る行ないが多い人物でした。極めつけは、「都の天皇や院は邪魔な存在に過ぎないから、木像か金の像でも作って飾り、生きている方は配流してしまえばいい」と放言しています。そんな悪行三昧を尽くした師直は、最後には幕府内で対立していた尊氏の弟・直義に粛清されてしまいました。
また、土岐頼遠は下克上のような形で美濃の守護大名にのし上がった武将でしたが、都での傍若無人ぶりが大事件に発展しました。今比叡の馬場で笠懸(かさがけ=馬に乗って矢を射る競技)をした後、大酒を飲んだ頼遠一行が帰る途中、光厳上皇の牛車と出会いました。下馬をして道を譲るべきところ、倣慢に振舞う頼遠は譲ろうとせず、「これなるは院の御幸なるぞ」との声に、「院と言ったか、犬と言ったか。犬ならば射てやろう」と答え、何と矢を射掛けてしまうのです。足利政権にお墨付きを与えた重要な存在である光厳上皇に対しての暴挙だけに、これを開いた直義は激怒し、頼遠を斬首に処しました。
最後に佐々木道誉ですが、彼も先の2人と同じように乱暴狼籍を働きました。天台宗の門跡寺院であった妙法院を焼き討ちにしたのです。門跡寺院とは、皇族や貴族が門主となる非常に格式の高い寺のことです。発端は些細ないざこざでしたが、この事件に本山の比叡山延暦寺が怒り、僧兵のカで圧力をかけて幕府に厳罰を求めます。将軍の尊氏もこれに弱り、いったんは出羽国への配流としましたが、後に上総国への配流に減刑しました。道誉は形の上ではこれに従いますが、実際は華やかな行列を連ねて近江あたりまで行き、その後はどこかへ雲隠れしてしまいます。
幕府としても、足利政権を支える道誉を守りたかりたことや、比叡山の宗教権力は煙たい存在であったため、道誉の行ないを内心支持していた商もあり、厳罰に処すつもりはなかったようです。同じ「ばさら」の行為でも、道誉の場合は先の2人と違い、私利私欲の要素が少なく、むしろ情勢に適ったものだったためでしょう。
道誉はこの後も世間の耳目を集める大蕩尽会(だいとうじんえ)を開くなど、派手な「ばさら」的行為を繰り返しますが、それらは単に混乱をもたらすような反社会的行為ではなく、むしろ時代の盛り上がった気運を体現するもので、古い権力に抑庄されていた庶民にとって、痛快をもたらす、質の高い「ばさら」だったのです。
そもそも武士という存在は、実力はありながらも公家の下に置かれ、野蛮な存在として扱われていました。平清盛ら平氏が貴族化し、源頼朝の鎌倉政権が京の公家社会と距離を置いていたことからも、その状態は続いていたと言えます。
しかし、南北朝から室町政権になって多くの武士が京で暮らし、その実力を背景に上流階層に交わる中で、無力な公家たちに従うのではなく、自分たちの価値観を押し出して振舞うようになりました。これを公家から見れば無作法と映り、「ばさら」と非難するようになったのでしょう。
この「ばさも」が無作法に始まり、ただの乱暴狼籍に留まるような場合は、公家の嘆くような忌まわしき振舞いでしょう。しかし、道誉が行なったような「ばさら」は、むしろ無力でありながら強欲だった公家や寺社という旧権力に対しての反骨精神が元にあり、実力を持った武士たちが、新しい社会を担うために変革を求めるという、一定の理念を含んだ「ばさら」であったと思います。
鎌倉末期は北条政権の退廃による閉塞感の漂う時代でしたが、それを一挙に打ち破って室町の新たな時代へと移っていったのは、その起爆剤として「ばさら」の文化があったからでしょう。その文化は、室町幕府が機能不全となって戦乱を招くようになると、再び「傾く」文化となって社会に変革をもたらす起爆剤となりました。
このように日本社会では、時代が行き詰まると、民衆から湧き起こるエネルギーを起爆剤として、その担い手となる次代の旗手が新たな文化を生み、社会に変革をもたらすという流れがあるように思えてなりません。
現在、わたしたちは豊かな社会に生きており、物質面では「セレブ」と称するような奢侈な文化を持ってはいますが、精神の面で「ばさら」「傾く」に並ぶような文化を持っているでしょうか。新しい時代を志向する美意識は、まだ生まれていないのではないかと思うのです。
人びとの意識が内向きの思考に留まり、スケールの大きな発想を求めていないという現状では、新しいものは何も生まれず、日本は将来の発展を望めません。今、求められているのは、佐々木道誉が発揮したような良質な「ばさら」の精神なのではないでしょうか。
森谷尅久(もりやかつひさ)
1934年、京都市生まれ。立命館大学大学院文学研究科修士課程修了。都市文化史、生活文化史、情報文化史を専攻。京都市史編纂所員、京都市歴史資料館初代館長、京都大学講師、京都市文化財保護審議会委員などを経て、現在、武庫川女子大学名誉教授。京都の文化をはじめ、歴史、風習、風俗における第一人者。また、京都検定公式テキスト監修も務めている。
著書に『地名で読む京の町上・下』(PHP研究所)『京都大辞典』(淡交社)『京都千年』(講談社)『図説京都府の歴史』(河出書房新社)『京都の「地理・地名・地図」の謎』(実業之日本社)など多数ある。
更新:11月23日 00:05