2013年08月02日 公開
2021年02月05日 更新
しかし、京都で新たな歩みを始めた八重が、会津のことを全く忘れていたわけではありません。むしろ、その逆でしょう。
会津の人々にとって、戊辰戦争は不条理以外の何ものでもありませんでした。
孝明天皇からも篤く信頼されていた会津藩が、ある日突然に朝敵にされ、理不尽な侵攻を受け、蹂躙されたのです。戦いの中で、親しい者が次々に死んでいく悲劇も数多く味わいました。人一倍負けず嫌いの魂をもつ八重は、大いなる怒りと悲しみを覚えていたはずです。
八重と覚馬が明治以降、キリスト教に惹かれたのも、その心の傷ゆえかもしれません。
愛する国・会津を喪失した悲しみと絶望の中で、「勝てば官軍、負ければ賊軍」の不条理な権力や秩序の枠を超えた、「最上位の存在としての神」「仕えるべき主人としての神」を求めたのではないかと思えてならないのです。
もう1つ、八重には「神の前では人は皆平等」「男女も平等」という教えも大いに魅力だったのではないでしょうか。
八重のような女性は「女子だから」と押さえつけられたこともあったでしょうし、兄の覚馬や夫の尚之助の識見が、身分秩序の壁のために十分に活かされない現実も見聞きしていたでしょう。
その不条理も、八重にとっては我慢できないものだったはずです。
しかし、だからといって八重は、「日本人全員がキリスト教徒になるべき」などと考えてはいませんし、平塚らいてうのように女性解放運動を行なうわけでもありません。
彼女は「社会を変える」のではなく、むしろすべてを一度、自分自身の問題として受け止める道を選んでいます。キリスト教も、彼女にとっては「己の心を磨く砂」としての意味合いが強かったのでしょう。
それも、会津の教育の影響だろうと私は考えます。会津藩では極めて高水準の儒教教育が行なわれていました。儒教では「身を修め、家を斉えることによって国を治め、社会の平安をもたらす」ことを第一義的に考えます。
その点で八重は、会津の教育で培ったものを手放そうとはしていません。いや、むしろ失ってはならないと考えたのではないでしょうか。あくまで矩を超えず、兄や夫を支えていくのです。そこにまた、八重ならではの魅力を見るような思いがします。
実は、八重が後の夫となる新島襄に初めて会ったのも、八重や覚馬がキリスト教に関心を持つきっかけを作った宣教師・ゴルドンの家でのことでした。八重が聖書を習いにゴルドン家を訪れた時、ゴルドンの靴を磨いていた新島襄に出会うのです。
新島襄は幕末の元治元年(1864)、箱館(函館)からアメリカに蜜航します。そしてその際に乗船したワイルド・ローヴァー号の船主・ハーディー夫妻の援助を受けて進学し、明治3年にはアーモスト大学を、さらに明治7年(1874)にはアンドーヴァー神学校を卒業しました。
襄はこの経験を通して「欧米文明の基礎は、国民教化にある」との確信を抱くようになります。
近代国家を支えるべき人間とは、「政府や国家に依頼心を持たず、独立不羈の一己の見識と品格に基づいて天地に恥じない『一国の良心』ともいうべき者」であり、そのような者はキリスト教の「普遍的真理」に基づく徳育により養われると考えたのです。
襄は日本において国民教化を進めるべく、明治7年に帰国します。
最初は、木戸孝允の紹介で(襄は岩倉使節団の一員として渡米した木戸の通訳を務めていました)大阪に学校を作ろうとして果たせず、次に京都を訪れて山本覚馬と出会い、その積極的な支援を受けて、京都で活動を始めていたのです。
最初に相手を意識したのは襄の方だったようです。ある時、襄は京都府知事の槇村に「君はどのような妻君を迎えるのか」と問われます。襄は「亭主が、東を向けと命令すれば、3年でも東を向いている東洋風の婦人はご免です」と答えました。
すると槇村は「それなら、ちょうど適当な婦人がいる。山本覚馬氏の妹だ。度々私のところに女紅場について難しい問題を持ちかけて、私を困らせているのだ」と語ったのです。
そんなやりとりがあった後の、ある夏の日のこと。山本覚馬を訪ねた襄は、井戸の上に板を渡し、その上に座って涼みながら縫い物をする八重に出会うのです。その姿を見て、襄は八重に惹かれました。
襄はアメリカのハーディー夫人への手紙で「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです」と書いています。襄にとって八重は、まさに「独立不羈」の魂をもった女性だったのでしょう。
かくして明治9年(1876)、八重は新島襄と結ばれました。そして襄と共に、理想の教育実現に全力を尽くしていきます。八重はキリスト教の洗礼を受けたこともあって女紅場を免職されますが、結婚後、同志社女学校の設立に力を注いでいきました。
また、襄の理想に従い、西洋的な「レディ」の生き方を実践してもいます。洋装し、夫を「襄」と呼び捨てにし、一緒に並んで人力車に乗る……。そんな態度は京都の人々には決して理解されませんでしたし、同志社の生徒たちからすら白眼視されました。
同志社に学んだ徳富猪一郎(蘇峰)は「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺のような女性がいる」などと失礼極まりないことをいっています。
しかし、八重は全く怯みませんでした。西洋的なスタイルは「男女は平等」という自分の思いに沿うものであると同時に、夫が求める生き方でもありました。会津の儒教教育で夫唱婦随の精神を身に染み込ませた八重としても、何を臆することもなかったのです。
スペンサー銃を学び、キリスト教を信仰し、西洋帰りの夫好みの女性として振る舞った八重は、実は一身で「和魂洋才」を体現したといえるのではないでしょうか。
どんな困難な状況であっても、最後まで逃げず不屈の精神で立ち向かい、夫や兄を支えることを通じて「公」に尽くす生き方を貫いた八重。いかに生きるべきか迷いの多い現代、彼女の「強さ」はわれわれに多くのことを教えてくれるように思えてなりません。
更新:11月24日 00:05