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「日本を欧米に伍する国に…」 新島襄 が 同志社設立に込めた思い

2013年09月06日 公開
2022年11月14日 更新

『歴史街道』編集部

『歴史街道』2013年10月号(9月6日発売)特集より》

 「もし俺の冒険が失敗に帰したとしても、祖国は何ら痛痒を感じないだろう。しかし、いつしか帰国できたなら、祖国にとって何らかの益となろう!」

 日本を飛び立つ時、新島襄はこう心の中で叫んだと述懐している。それから10年、明治7年(1874)に帰国した襄は、言葉通り「祖国に益」をもたらすべく東奔西走した。

 襄が帰国したのは、宣教師ゴードンから「大阪で日本での伝道活動を手伝って欲しい」と依頼されたからだ。襄は両親のいる安中に立ち寄った後に大阪へ向かい、伝道活動を始めた。そして同時に取り組んだのが、先のアメリカ海外伝道協会の年次大会で熱弁を振るった、日本における神学校設立であった。

 留意すべきは、襄がキリスト教徒を増やすためだけに神学校設立を考えた訳ではない点であろう。新興国・アメリカの発展をその目で見た襄は、「新時代の日本には西洋文明が必要」と考えた。そして多くのアメリカ人と接する中で、西洋文明の根幹にある「キリスト教精神」の重要性に気付いた。だからこそ襄は、神学校を設立してキリスト教精神を日本人に伝えることで、「祖国に益」をもたらそうとしたのだ。

 そんな襄を後押ししたのが、山本覚馬・八重の兄妹であった。襄がはじめて覚馬と顔を合わせたのは、明治8年(1875)4月のこと。襄33歳、覚馬48歳。覚馬は襄の話に熱心に耳を傾けると、京都に学校を設立するよう懇切に勧めた。京都府の顧問を務める覚馬は、『天道溯源』(中国語で書かれた教理書)を読んでキリスト教道徳の重要性に目覚め、新時代の道徳律をキリスト教に求めていた。襄が覚馬とともに神学校設立に向けて歩むのは、必然であったのかもしれない。

 襄が寄宿した山本家には神学校設立に反対する仏教徒が押し寄せ、中には拳ほどの大きさの石を投げつける者もいた。それでも襄は挫けず、11月、覚馬の力を借りて同志社英学校を設立した。京都府は襄に「聖書を授業科目に入れない」ことを条件に開業許可を出したが、襄は校外の課外授業で生徒に聖書や神学を教えたという。

 さらに襄の歩みは止まらない。次は、大学設立のため奔走する。襄は母校のアーモスト大学のように神学、哲学、文学、法学、理学、医学などの蘊奥を攻究する専門学部を持つ、欧米の伝統的な総合大学を目指した。神学以外にも力を入れていた点からも、襄が単なる布教ではなく、日本を欧米に伍する国にすべく教育に心血を注いでいたことが窺えよう。

 明治23年(1890)1月23日、病魔に侵された襄は、48歳の若さでこの世を去る。襄の夢であった同志社大学が誕生したのは、それから30年後の大正9年(1920)のことであった。

 「新島はなお生きている。肉体はほろんでも、彼はなおもこの国民の全部に語りかけているのである」

 同志社英学校の教師を務めたデイヴィスは、死別の悲しみに耐えて著わした新島襄伝をこう結んでいる。襄の志と情熱は、確かに遺された者たちに受け継がれたのである。


<掲載誌紹介>

歴史街道 2013年1月号

[総力特集]戦艦大和 最後の出撃
[特集]若き日の新島襄

<読みどころ>
桜の咲き誇る昭和20年(1945)4月5日。戦艦大和の前甲板に集合した約2500人の乗組員が有賀艦長から告げられたのは、「海上特攻として8日黎明、沖縄を目指す」というものでした。乗組員たちの顔色は蒼白になりますが、次の瞬間、皆の顔はみるみる紅潮したといいます。「よし、やってやろうじゃないか。俺たちが大和を突入させ、沖縄を助けるぞ!」。戦後長らく戦艦大和は、時代遅れの役立たずとされてきましたが、その評価は正しいものでしょうか。また大和を旗艦とする10隻の第二艦隊の乗組員たちは、どんな思いで作戦に臨んだのか。戦艦大和の真価と、決死の使命に一丸となって立ち向かった男たちの真実を、4人の生還者の証言とともに描きます。第二特集は「若き日の新島襄」です。

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