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八重、兄・覚馬、夫・新島襄とともに、明治の京都を生きる

2013年08月02日 公開
2021年02月05日 更新

童門冬二(作家)

童門冬二

会津藩の消滅と尚之助の悲運に沈む八重のもとに、意外な知らせが届く。死んだと思っていた覚馬からの、京都への招きだった。

そして新たな生活のなかで、八重はキリスト教の価値観と新島嚢に出会う。アメリカ帰りの襄が「ハンサム」と表現した八重の生き方は、何を重んじたものであったのか。

※本稿は、『歴史街道』2013年2月号の内容を、一部抜粋・編集したものです。

 

悲運、そして新たなる旅立ち

会津戦争を、最新鋭のスペンサー銃を手に戦い抜いた八重。しかし奮戦むなしく、会津藩は明治元年(1868)9月22日に降伏・開城します。藩士(男性)たちは猪苗代での謹慎を命じられ、その後、東京に移送されました。

女性や子供、老人はお構いなしでしたが、なんと八重は弟三郎の形見の衣服を身にまとったまま、あくまで山本三郎と名乗って男たちと共に猪苗代に向かうのです。さすがに途中で女性だと見破られて追い返されてしまいますが、この時の八重の心境を思うと、胸がつまります。

八重の夫、川崎尚之助も他の藩士たちと行動を共にしますが、明治3年(1870)1月に謹慎が解かれ、会津松平家の新たな領地とされた斗南藩(現・青森県十和田市、むつ市、野辺地町)に移ります。

ただし、二十三万石だった会津藩士の家族全員が、三万石(実高は七千石ともいわれる)の斗南に移るわけにはいきません。

すでに生活の基盤を得ていた者は、当座そこに留まるべきという配慮から、八重と母佐久、兄覚馬の嫁のうらとその娘のみねは、身を寄せていた米沢で、そのまま過ごすことになったようです。

かつて会津で尚之助に砲術を学んでいた米沢藩士が、家族の窮地を見かねて救いの手を差し伸べてくれていたのです。

斗南に移った会津藩士たちは、厳しい気候風土の中で塗炭の苦しみを味わいました。

明治3年10月、川崎尚之助は藩士の窮状を救うべく、柴太一郎(義和団事件〈北清事変〉で活躍した柴五郎の兄)と共に外国から米を輸入するために函館に向かいますが、そこで詐欺事件に巻き込まれてしまうのです。

藩に迷惑をかけぬため、尚之助と太一郎は一身に責任を引き受け、裁判が行なわれる東京に移送されます。そして尚之助は訴訟係争中に身体を壊して、明治8年(1875)3月20日に東京で亡くなりました。

一方、明治4年(1871)7月に廃藩置県が断行され、旧藩主に東京への移住が命じられます。斗南藩主であった松平容大(容保嫡男)や容保も東京に移りました。藩主を失った斗南の旧会津藩士たちの多くも、会津はじめ各地にバラバラに散っていきました。

八重一家が藩の消滅と尚之助の悲運に沈んでいたちょうどその時、戊辰戦争で死んだと思われていた兄覚馬からの連絡が入ります。

禁門の変で活躍した覚馬ですが、その頃から目を患い、戊辰戦争当時にはほとんど失明していました。そして鳥羽伏見の戦いの時に薩摩藩に捕まり、軟禁されていたのです。

しかし、ここで覚馬は渾身の口述筆記で「新政府かくあるべし」という提言をまとめ、薩摩藩に提出します(『管見』)。

そこには三権分立、二院制、商工業振興、女子教育の必要性、男女平等の相続、徴兵制の採用、税制改革、能力主義の官吏登用など極めて先見の明に富んだ内容が記されていました。

これを読んだ西郷隆盛はじめ薩摩藩士や岩倉具視らは、すっかり感服したといいます。

覚馬が師事した佐久間象山は、「余、年二十以後乃ち匹夫も一国(松代藩)に繋るあるを知り、三十以後乃ち天下(日本国)に繋るあるを知り、四十以後は乃ち五世界(全世界)に繋るあるを知る」という言葉を残しています。

この強烈な自覚が、覚馬にも染み込んでいたのでしょう。覚馬は会津藩の悲劇を乗り越え、なお日本国という「公」に全力で尽くそうとしたのです。

明治2年(1869)に釈放された覚馬は、翌年には『管見』の内容が認められて京都府の顧問に就任。戊辰戦争で荒れ果て、天皇も東京に移ってしまった後の京都の復興と近代化に大きく貢献していきます。

しかし覚馬は両目の失明に加え、軟禁生活の影響もあって足が不自由になっていました。

そのため会津戦争後の混乱の中で、米沢に移り住んでいた家族の行方を捜しきれず、ようやくその無事がわかったのが明治4年だったのです。覚馬は家族を京都に呼びました。

かくして同年10月、八重、母佐久、そして覚馬の娘・みねの3人は京都に赴きます。

八重は京都で、身体が不自由な覚馬を支えていきました。明治5年(1872)、覚馬は『管見』でも表明した女子教育充実のために、京都に「新英学級及女紅場」を設立します。

これは女子に裁縫や礼法、読み書き、さらには英語や数学などを教える学校ですが、八重はここで女子寮の監督をしつつ、機織、裁縫や礼法などを教えました。

女紅場の補助金の増額を、京都府知事・槇村正直に直接掛け合うこともあったようです。新たな環境で実に生き生きと、積極的に兄を支える様子が目に浮かびます。

さらに、若い頃には体重が22貫(82.5キロ)もある偉丈夫だった覚馬が外出する際にも、力自慢の八重が手助けをしました。兄が人力車を乗降する時には肩を貸し、歩く折には兄を背負います。覚馬が東京で木戸孝允や岩倉具視、江藤新平ら要人を訪問した折にも、八重は兄に同道しました。

そんな時、八重は会津戦争で新政府軍を撃ち倒したことを隠そうともしていませんし、かつての敵である木戸孝允や板垣退助らも、八重の勇気に感嘆はしても、それを遺恨とするようなことは全くありませんでした。この辺りは、明治という「近代日本の青春時代」の面白さでもあるでしょう。

また八重には、相手が要人でも平気で口を利き合えるような肝の据わったところがありました。言いたいことをはっきりと言い、やりたいことをやる。そんな生き方が、苦境を撥ね返していく彼女のバイタリティの源であるようにも思います。

 

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著者紹介

童門冬二(どうもん・ふゆじ)

作家

1927年東京生まれ。東京都職員時代から小説の執筆を始め、’60年に『暗い川が手を叩く』(大和出版)で芥川賞候補。東京都企画調整局長、政策室長等を経て、’79年に退職。以後、執筆活動に専念し、歴史小説を中心に多くの話題作を著す。近江商人関連の著作に、『近江商人魂』『小説中江藤樹』(以上、学陽書房)、『小説蒲生氏郷』(集英社文庫)、『近江商人のビジネス哲学』(サンライズ出版)などがある。

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