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豊臣秀吉にはめられた? 北条家滅亡の引き金となった“名胡桃城事件”の本質

2025年08月25日 公開

橋場日月(作家)

名胡桃城事件

天正17年(1589)、北条家の家臣・猪俣邦憲が真田昌幸の領する名胡桃城を奪取した。この事件は、小田原合戦と北条家の滅亡に繫がるが、その真相は謎に包まれている。なぜ、猪俣は城を攻め取ったのか。なぜ、城はあえなく落ちたのか。そこに、真田昌幸、もしくは豊臣秀吉のはかりごとはあったのか......。事件の深奥に分け入ってみよう。

※本稿は、『歴史街道』2024年8月号より、内容を一部抜粋・編集したものです

 

名胡桃城は地政学上の要地だった

現在、茨城県・千葉県境で太平洋に注ぐ利根川は、その源流を群馬県利根郡みなかみ町に置く。そこから川を南下した、同じみなかみ町の下津という右岸の高所に、名胡桃城はあった。

みなかみは水上=利根川の上流であり、北の越後国境に近い。名胡桃城は同じく越後国境の万太郎山から流れ出る赤谷川との合流点にある。そのことから、中世の頃、このあたりは越後国から武蔵国(かつての利根川は東京湾に注ぎ込んでいた)に到る利根川舟運の拠点であり、物資と情報が集まる場所だったであろうことは容易に推測できる。

城そのものは、本丸のほか二の丸・三の丸・般若郭・外郭と、いくつもの曲輪で構成された大規模なもので、切り立った崖と堀に囲まれ、難攻不落の構えを誇るものだった。  

そして何よりもその特長は、7キロメートルあまり南に下った利根川対岸の沼田城をよく望めることだ。そう、名胡桃城は西の信濃国の敵勢力から見れば、沼田城を攻略するための必須の拠点だったのである。逆に沼田城からすれば、西の敵を防ぐには欠かせない前線基地ということになる。

以上のような地政学上の要地である名胡桃城は、天正17年(1589)11月2日まで、真田昌幸の支配下にあり続けていた。

 

真田家にとっての名胡桃城とは

あり続けていた、と書いたのは他でもない。

この年7月、昌幸は支配下の沼田領のうち沼田城を失ったものの、名胡桃城は依然として保持していたからだ。そしてこの城の存在が、翌天正18年(1590)の豊臣秀吉による北条家攻め(小田原征伐)へ直接結びついていく。

そもそも真田家と名胡桃城との歴史は古い。昌幸の父・幸綱は天文10年(1541)、本拠の真田郷を追われた際に名胡桃城へも滞在したという伝承があり(『上野国志』)、武田家に仕えた昌幸は、父から西上野の経略を引き継いで名胡桃城と沼田城を狙い続けていた。

天正6年(1578)、上杉謙信の急死によりそれまで上杉方だった沼田城は北条家の傘下となる。これに対して昌幸は、まず名胡桃城を寝返らせた。そして調略の才を尽くしてついに天正8年(1580)、沼田城を手に入れたのだ。

こうして沼田領と呼ばれる吾妻郡・利根郡の主となった昌幸は、本貫地である信濃国小県郡と合わせ2ケ国にわたる大身となる。

だが、天正10年(1582)の武田家滅亡後に昌幸が従った徳川家康は、「北条家との講和条件として、約束していた沼田領を引き渡せ」と昌幸に要求した。

これに対し昌幸は「沼田領は我が祖先伝来の地であり、家康から拝領したものではない」と憤然として拒絶。激怒した家康は「(真田勢を)都合の良い所に引っぱり出して根切り(殲滅)せよ」と命令したが、天正13年(1585)、逆に昌幸が徳川遠征軍を上田城下に引き付けて、2000の兵力で7000の徳川勢を撃破。世に知られる「第一次上田合戦」である。

直後、上野国でも北条軍が沼田城に攻め寄せたが、こちらも城代の矢沢頼綱(昌幸の叔父)の奮戦で真田勢が城を守り抜いている。

こうして真田家は、信濃小県・上野吾妻と利根の領地を確保し続けたのだが、事態は新たな展開を見せる。昌幸が豊臣秀吉を頼ったのだ。

関白に成り立ての秀吉が昌幸の帰順を受け入れるというのは、真田家を独立大名として公認することを意味する。名胡桃城・沼田城を含む沼田領(吾妻郡・利根郡)を死守したのが効いたのだ。つまり、名胡桃城は戦国大名・真田家の存立の鍵となっていた訳である。 

 

秀吉の真意

しかし、ここでまた状況が急変する。翌年、秀吉は昌幸を「徳川所へ返し置く」(秀吉書状)、つまり徳川家の寄騎大名にすると裁定したのだ。

寄騎は家来ではないとはいうものの、今や犬猿の仲の家康の指揮を受けなければならないというのは、昌幸にとってあまりにも辛い。
そのうえ天正17年7月、速やかに上洛をと要求していた北条家から強硬に沼田領の領有を主張された秀吉は、さらに苛酷な命令で昌幸に追い討ちをかける。

「沼田領3万石のうちの沼田城を含む3分の2は北条に割譲せよ。名胡桃城を含む残り3分の1は真田に残す。この真田領の中には名胡桃城が含まれる」というものだ。

これは名胡桃が「真田家墳墓の地」であるとの昌幸の主張が容れられたためで、取り上げられた3分の2の所領の替え地については、家康が信濃国伊那郡の一部を与えることとなった。

これが前章で述べた7月に昌幸が沼田城を失った経緯である。秀吉は家康がかつて北条家と交わした約束を実現させてやろうという建前で、北条側に恩を売って服従の体裁をとらせ、天下統一の実を早く挙げようとしたのである。

昌幸・家康はその割りを喰う形となったわけだが、昌幸にとっては、プラス面も大きい政治イベントだった。土着の沼田衆を土地から切り離し、伊那に移住させることで、真田家を頂点とする家中統制を高めることができたからだ。

名胡桃城を「墳墓の地」と主張したのは、昌幸の過大申告でしかない。だが、真田家の辛苦と努力の末に勝ち取ったものであることは事実で、秀吉も昌幸に対し後ろめたい気持ちもあり、多少は話を盛っていても黙認しようということだったのだろうか。いや、それ以上に精緻な計算があったのではないか。

それは、この領土交渉で北条家が帰服すればそれで良し、もし拒めばそれが討伐の格好の口実になるという訳だ。

さらに一歩踏み込んで言えば、冒頭で述べたように名胡桃城は沼田城にとって敵に回せば至極厄介な、喉元に突き付けられた匕首であった。ゆえに、北条家としては何としてもその脅威を除こうと動く筈であり、動いたその瞬間に「天皇の権威を代行し、私戦を禁じる"公儀"である関白・秀吉の命に背き、私的に兵を動かしたばかりか、秀吉が裁定した領土分割を反古にした」という、より強い大義名分が成立する。

北条家が西で国境を接する徳川家、北で国境を接する上杉家はそれぞれ大大名であり、特に徳川家とは家康の次女・督姫を当主・氏直の正室に迎えた縁戚の間柄。これらの方面に、北条家が軍事的な行動を起こすのは危険で必然性も無い。

結局そこまでの大勢力でもない真田家の名胡桃城だけが、目の前にぶら下げられたニンジンのように北条家の欲を刺激する。これに手を出さない訳が無い、と秀吉は読み切り、昌幸にもそう言い含めた可能性は高い。

主張をある程度認められた北条氏直は、その年12月には父の氏政を上洛させることを約束し、一旦講和が成立したかに見えた。

実際、秀吉は真田家に対し「沼田領の分割の境界を検分する」と伝え(昌幸の子・信之宛て秀吉書状)、すぐに検分が実行されている。

しかし、あに図らんやというか案の定というか、北条家がそのままおとなしく新しい境界分けを受け入れることはなかった。

 

名胡桃城落城に見えるふたつの可能性

沼田城を任された北条氏邦(氏直の叔父)の城代・猪俣邦憲は、北条氏の上野経略の先兵として働き続けてきた人物で、昌幸には何度も手痛い目にあわされてきた。

天正10年10月の沼田合戦では、5000余の北条軍の先鋒として1500人を率いたが、700の真田勢に夜討ちをかけられ、伏兵に攻め立てられて300の兵を失っている。

命からがら逃げ帰った邦憲の恨みは深く、雪辱を期す気持ちは強かった。

こういう因縁のある男を沼田城代にしたのだから、北条家が真田方の名胡桃城について下心が無かったというのは、無理があるだろう。

名胡桃城の主将は鈴木主水と伝わるが、邦憲は主水の下にいた中山九兵衛尉という男に調略を仕掛けた。名胡桃城のほか2ケ城を与えるという餌で九兵衛尉をそそのかし、上田からの飛脚と偽らせた者に昌幸のニセ判を捺した書状を持たせて、鈴木主水に届けさせたのだ。

「伊那郡に新城を築くので、その場所について相談したい。名胡桃城は中山九兵衛尉に留守させて信濃へ来てくれ」と書かれていた書状にまんまと騙された主水は名胡桃を発ち、途中の岩櫃城で矢沢頼綱に会った。

話を聞いた頼綱は顔色を変えて「それは謀られたのだ。主水を呼び寄せるのならば触頭である自分を通すのが筋だが、私は何も聞いていない」と言う。なるほどと慌てた主水が名胡桃へ戻ると、城には既に邦憲の手勢1000人余りが入っていた。

取り返しのつかない失態を犯したと、主水は責任をとって切腹。こうして天正17年11月3日、だましうちによって名胡桃城は北条勢の手に落ちたのである(『武徳編年集成』『御家事留書』)。

この一件については『家忠日記増補追加』では「邦憲が名胡桃城を急襲し、城の守兵が少なかったためあっという間に攻め落とした」とあり、先述のようなはかりごとがあったとは書いていない。

どちらも軍記・伝記の類いなので真相は不明だが、秀吉の書状にも「お前が所有する名胡桃城にこのたび北条勢が攻撃をしかけ、将を討ち果たして城を乗っ取ったとの報告を聞いた」としか書かれておらず(昌幸宛)、実際には寡兵で守る名胡桃城を猪俣邦憲が急襲して攻め落とした、というのが真実に近いかも知れない。

ただ、あまりにもあっけなく落城したところを見ると、ふたつの可能性が考えられる。  

ひとつは、やはり城内の何者かによる裏切り行為があったとする考え。
そしてもうひとつは、これが大事なのだが、北条勢の攻撃を誘うために、わざと名胡桃城の守備兵力を少ない状態にしておいた、とする考えだ。

北条方の沼田城を牽制し監視する役目を負った名胡桃城の守備を薄くするというのは、昌幸の独断とは考えられない。職務怠慢と秀吉に責められるからだ。この場合、あくまでも昌幸は秀吉の意向を受けていたと考えるべきだろう。

 

北条家に欠けていたもの

いずれにしても、これで北条家の命運は極まった。練りに練られた陥穽にまんまとはまり、自ら詰みとなる一手を打ってしまったのだ。

秀吉は書状で「名胡桃城を攻め取り真田勢を討ち取った者どもを処刑しなければ北条家を許さぬ」と怒りをあらわにし(たとえそれが計算尽くの芝居であったとしても)、戦備強化を指示し、家臣たちにも「この書状を見せて戦意を高揚させよ」と煽る。

そして昌幸の寄親である家康にも、11月24日付けで北条征伐の決定を告げた。

「徳川と北条は同盟関係であるから(それを忖度して)去年沼田領を北条家に与えた。だから速やかに上洛して臣従すべきであるのに、今日に至ってもはかばかしい返答は無い。

家康が氏直は娘婿だからと何度も頼むから今までは勘弁して来たが、それに対し北条家は真田の名胡桃城を奪うという大罪を犯した。この上はその罪を朝廷に奏上して征伐を実行する」(『大三川志』「富岡文書」)。

同日、諸大名にも宣戦布告状の写しが配布された。大略は昌幸や家康にしたためた内容と重なるが、一部を紹介しておこう。

「沼田領の件を北条家は自力で解決できなかったのに、家康の責任と強弁してのらりくらりと上洛臣従に難を示したから、それならばと真田家が領有してきた沼田領のうち沼田城を含む3分の2を北条に与えた。残りの3分の1は真田家に残し、その中にある城も真田家の管轄とすると裁定した」

名胡桃城は秀吉の直轄ではなく真田家のものとしたのは秀吉自身であり、それまでの「私的」な所有ではなく、その時点で公儀によって定められた所有関係に移行していたのである。

それを無視して「真田の城」とだけの認識で攻め取った北条家は、新しい時代の考え方を理解する能力に欠けていたという他はあるまい。

天正18年4月、秀吉軍20万の包囲を受けた北条家の小田原城は、なすところ無く7月に開城降伏し、戦国大名としての北条家は滅びた。

名胡桃城は、関東に新たな時代が始まる呼び水の働きをし、ふたたび沼田領主となった真田家の下で廃城となっている。

プロフィール

橋場日月(はしば・あきら)

作家

昭和37年(1962)、 大阪府生まれ。日本の戦国時代を中心に 歴史研究、執筆を行なう。著書に『地形で読み解く 「真田三代」最強の秘密』『新説 桶狭間合戦─知られざる 織田・今川七〇年戦争の実相』『明智光秀 残虐と 謀略─一級史料で読み解く』などがある。

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