
1945年7月、ポツダム会談。左からウィンストン・チャーチル英首相、ハリー・トルーマン米大統領、ソ連最高指導者ヨシフ・スターリン(写真:U.S. Army Signal Corps / Harry S. Truman Library & Museum)
ソ連の急速な台頭を警戒し、連合国はポツダム宣言の発出からソ連を締め出した。しかし同時に、対日参戦を強く望む複雑な思惑も存在していたという。日本の降伏をめぐる連合国の攻防について、戦争終結論を研究する千々和泰明氏が解説する。
※本稿は、千々和泰明著『誰が日本を降伏させたか 原爆投下、ソ連参戦、そして聖断』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
もともとポツダム宣言には、初めからソ連が参加することが想定されていた。実際に草案には、「今や巨大なるソ連の軍事力の参加を得て」との表現があった(U.S. Department of State, Foreign Relations of the United States〈FRUS〉)。
だが、ソ連参戦は米軍の犠牲を軽減する効果を期待できる半面、戦後の東アジアにおけるソ連の影響力増大を認めることを意味する。
たとえばジェームズ・バーンズ国務長官はもともと、「ソ連が対日参戦をしないことに決心してくれればかえって仕合わせだと思っていた。日本は無条件降伏を拒否しているが、原爆は成功するだろうし、それで日本は米国の提案するとおりの条件で降伏するにちがいない。ソ連軍が満州〔日本の事実上の支配下にある中国東北部〕に侵入したらどんなことが起こるか心配にたえない」との考えだった(毎日新聞社図書編集部訳・編『太平洋戦争秘史』)。
そこで米国は何をしたかと言うと、対日降伏勧告の発出から、ソ連を締め出したのである。
7月26日、ハリー・トルーマン大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蔣介石総統の名で、対日降伏勧告であるポツダム宣言が発表された。
だが、ポツダム会談に参加していない蔣介石の署名がある(トルーマンが同意を得て代筆した)のに対し、れっきとした参加者であるソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンの署名がここには含まれていなかった。
いや、れっきとした参加者どころではない。ここポツダムは、ソ連軍の占領地域である。そしてソ連はドイツ占領に至るまで、戦死者約2700万人という信じがたいような犠牲を引き受けて、連合国側の勝利に貢献してきた。スターリンは言わば、ポツダム会談のホストなのである。ところがそこでの会談でとりまとめられた首脳の共同宣言に、ホスト役の署名がないのだ。
ポツダム宣言が記者会見で発表されたのち、バーンズ国務長官はようやく同宣言の本文をソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外相に渡した。
モロトフは激怒した。ソ連は、日ソ中立条約締結の相手方である日本に宣戦することが国際法違反になるのは百も承知だった。そこで、ポツダム宣言に名を連ねることで、連合国からの、ひいては国際社会からの要望にもとづいてソ連は対日参戦するのである、との理屈を繰り出し、自らの行動を正当化するつもりだった。スターリンやモロトフにしてみれば、そうした計画を米国によって一方的にご破算にされたわけである。
これまでソ連参戦に期待を寄せていたトルーマンは、核開発成功後の7月18日付の日記に、「ロシアが参戦する前に日本は参ってしまうものと思う。マンハッタン〔核〕が日本の本土上空に登場すれば、日本は参ってしまうと確信する」と書いている。
また7月23日にジョージ・マーシャル陸軍参謀総長と会話したヘンリー・スティムソン陸軍長官は、トルーマンと同じくソ連の参戦を希望していたマーシャルが、「今やわれわれの新兵器をもってすれば、日本を征服するのにロシアの支援を必要としないであろうと考えている」と確信したと日記に記している。
もし日本がスターリンの署名入りのポツダム宣言を受諾することになれば、ソ連は対日戦争の勝利に貢献したと言い張って、戦わずして戦利品を横取りしていくことは間違いない。歴史家のデイヴィッド・ホロウェイはこう言っている。
「スターリンはこのような計算もしただろう。もし日本が他の連合国首脳同様スターリンが署名した最後通牒を受けて降伏しても、ソ連はヤルタ協定で約束された戦利品が得られるし、日本占領でも役割を果たすことになる。その場合ソ連は、戦わずして、戦略目標を達成できるだろう」。
従うべき見解と言える。
しかし核開発成功によって、事態は変化した。日本本土侵攻を避けつつ無条件降伏を押しつけられる可能性のある手段を、米国は自分だけで用意することができるようになった。米国はソ連の対日戦争への関与を完全に排除するために、核の力だけで日本を降伏させようとしたかにも見える。
しかし実際には、米国は核開発成功後もソ連の完全排除を決意していたとまでは言えない。
核の実戦使用にはまだ確実ではないことが多すぎた。核はこれまで実戦で使われたことはなく、戦争でどのくらい決定的であるのかや、そもそも航空機からの投下という方法で本当に爆発するのかどうかさえ不確かだった。トルーマン大統領は、核実験成功後の7月18日にポツダムから妻に宛てた手紙のなかで、引き続きソ連参戦を望む心境を吐露していた。
同じようにソ連参戦にも不確実性が残った。所詮は他人頼みの話である。米国にはソ連の参戦の正確な日時、攻撃の烈度や範囲、期間を知りようがなく、また本当に参戦するのかすら、最終的には米国自身が決められるものではなかった。
ソ連参戦の直後でさえ、スティムソン陸軍長官は8月9日付の日記で、「原爆とロシアの参戦が勝利を早めるのに効果をもたらすのは間違いなかろう」としながらも、「しかし、その効果がどの程度のもので、どのくらい長く持続するのか、また、その勝利を達成するにはどれくらいの数の将兵を維持しておかなければならないのかは、依然として確定できない」と記している。
核使用もソ連参戦もそれぞれ不確実性のあるオプションなので、米国としては、日本がポツダム宣言を即時受諾するのがもっとも望ましいものの、「ダメなら核もソ連参戦も両方使う」ということでなければならなかっただろう。
ポツダム宣言からのソ連の排除については、「米国がソ連参戦前に日本を降伏させるために急いで核を使用したことの傍証」と見るより、「米国は核の力のみで日本を無条件降伏に追い込むことができるならばそれに越したことはないと考えた」程度に解釈しておくのが妥当ではないだろうか。
更新:08月31日 00:05