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クレオパトラと香油、織田信長の蘭奢待...あの人物が嗅いでいた「香りの正体」とは?

奈落一騎

デンデラのハトホル神殿 クレオパトラ7世のレリーフ

記憶や感情に直結しやすいといわれている人間の嗅覚。「香り」や「匂い」は、絵や文字と違い、そのまま後世まで伝わっているものは稀ですが、昔の人たちも、何らかの匂いを感じながら暮らしていたはず。人々は「香り」とどのようにつき合ってきたのでしょうか。そして、歴史上の「あの人」が嗅いでいた「匂い」の正体とは……。

「匂い」を感じる嗅覚は、多くの生き物にとって、視覚や聴覚といった他の感覚と同じように、食べられるものを判別したり、自分を捕食しようとする敵を察知したりする役割をもっている。また、繁殖相手となる異性を見つけるためにも使われている。

つまり、嗅覚は生き物が生存していくための大切な武器なのである。それは本来、人間にとっても同じであった。

だが、しだいに人間は嗅覚を生きるためだけでなく、日々の生活を楽しむためにも使うようになり、「香り」の文化を発展させていった。ここでは、そんな「香り」と「匂い」の世界史を見ていきたい。

【奈落一騎(ならくいっき/文筆業 )】 歴史、宗教、哲学、文芸などを対象に幅広く執筆。 著書に『江戸川乱歩語辞典』『競馬語辞典』『門外漢の仏教』『スーパー名馬伝説』、 グループSKIT名での共著に『元号でたどる日本史』などがある。

※本稿は、『歴史街道』2025年4月号より、内容を一部抜粋・編集したものです

 

クレオパトラが愛した香油

人類がいつから香りを楽しむようになったのかははっきりしていないものの、旧石器時代(約250万年前から約1万年前まで)にはすでに、そうした文化があったと考えられている。

はじめは香りのよい植物をそのまま体にこすりつけていたが、そのうちに人類は、木々や樹脂のなかには加熱すると芳しい香りが増すものがあることを発見した。

香水は英語でperfume、フランス語でpar-fumというが、語源はラテン語のperfumareである。

perは「通して」、fumareは「煙を」という意味だ。このことからも、人類が長いあいだ植物を焚くことで、その香りを楽しんでいたことがよくわかる。

燻蒸による香りの文化は世界中に見られるが、とくに発展したのが古代エジプトを中心とした地中海世界だ。

6000年以上前の古代エジプトの王の墳墓からは、ムクロジ目カンラン科ボスウェリア属の樹木の樹脂である乳香が、埋葬品として発掘されている。この乳香は、火にくべて利用されていたと推察されている。

やがて、古代エジプトでは香りのよい植物を植物油や動物性脂肪と混ぜ合わせる香油も作られるようになっていった。

その代表的なものが、ムクロジ目カンラン科コンミフォラ属の樹木の樹脂である没薬に、松脂、蜂蜜、干しブドウ、ワインなどを混ぜて作る香油のキフィだ。このキフィも焚くことで香りを強め、利用されていた。

こうした香油は宗教儀式に使われたほか、鎮静薬、鎮痛薬といった医療目的にも使われ、さらに直接皮膚に塗り込むことで、美容や衛生のためにも使われた。

紀元前1世紀の古代エジプトの女王クレオパトラは、ヤギ乳で満たした浴槽に薔薇の花を浮かべて入浴を楽しんだあと、湯上りの肌に香油を塗り込んでいたと伝えられている。

また、香油の香りを偏愛していたクレオパトラは、自身の船の帆に香油をたっぷり染み込ませていたため、遠くからでも女王の船の来訪がわかったという逸話も残されている。

なお、乳香や没薬は古代エジプトのみならず、地中海世界全域で珍重されていた。聖書には、イエス・キリストが誕生した際、祝福に訪れた東方の三博士が贈り物として乳香と没薬をイエスに捧げたと記されている。

 

織田信長も求めた蘭奢待

信長公出陣の像(清洲公園)

もちろん、日本にも古くから香りの文化は存在した。

『日本書記』によれば、推古天皇3年(595)に、一抱えもある大きな木が淡路島に漂着し、島民が薪と一緒に竈で焼いたところ、煙から類い稀なるよい香りが漂ってきた。そこで島民たちは、その木を朝廷に献上したという。

これが、日本において香りの文化を伝える、もっとも古い記録である。

こうしたよい香りを放つ木のことを香木というが、このとき漂着したのは、ジンチョウゲ科アクイラリア属やギリノプス属の樹木の「沈香」だとされている。

朝廷に献上された香木は、その後、淡路島にある枯木神社の御神体となり、現在も大切に祀られている。

日本ではこの沈香のほか、ビャクダン科ビャクダン属の樹木である白檀が、香木として歴史的に愛用され続けてきた。また、沈香のなかでも高品質のものは伽羅と呼ばれ、とくに珍重された。

ちなみに、沈香は熱を加えることで香りを発するが、白檀は熱を加えなくても香気を発するという違いがある。ただ、どちらの香木も日本には自生せず、インドや東南アジアから輸入しなければならない高級品だった。

正倉院には長さ156センチメートル、重さ11.6キログラムという巨大な香木の蘭奢待(黄熟香)が宝物として納められている。これは沈香の一種で、鎌倉時代以前に日本に入ってきたと考えられている。

そして、足利義政や織田信長、明治天皇など時の権力者たちが、その貴重な香りを求めて蘭奢待の一部を切り取り、自分のものにしたと記録されている。

余談だが、「栴檀は双葉より芳し」ということわざがある。この栴檀とは、白檀のことだ。意味は、白檀が芽生えたときからすでに芳しい香りを放っているように、のちに大物になるような人物は子どものときから優れた素質を見せるというものである。

 

ハンガリー王女の魔法の水

現在の香水は基本的には香料をアルコールで溶かして作られるが、そのような香水がヨーロッパで誕生したのは比較的遅く、14世紀以降のことだ。それまでは、香料を植物油や動物性脂肪と混ぜ合わせた、昔ながらの香油が一般的であった。

しかも、香水を作るのに欠かせないアルコール自体は、ヨーロッパではなく、イスラム社会で発明されたものである。

8世紀以降、イスラム社会では錬金術の研究が盛んになり、その過程で化学物質を分離・純化するための蒸留器が発明された。

そして11世紀に、そのような蒸留器を使うことで、イスラム社会では発酵物からアルコールを抽出することに成功したとされている。

その知識と技術が、11世紀末以降に幾度となく繰り返された十字軍の遠征によってヨーロッパに伝えられ、香料をアルコールで溶かす香水が作られるようになっていった。

そうした香水の原形といわれているのが「ハンガリー・ウォーター」だ。これは、シソ科の植物で甘く爽やかな香りが特徴的なローズマリーとアルコールで作られた香水である。

「ハンガリー・ウォーター」の誕生については、次のような逸話が残されている。

14世紀ハンガリーの王女だったエリザベートは70歳過ぎの高齢で、持病のリウマチに悩んでいた。そこで、お抱えの錬金術師に相談したところ、「ハンガリー・ウォーター」の作り方を教えられた。

早速、王女がその液体を作って肌に塗り、さらに内服すると、リウマチが治っただけでなく、顔の皺も消えた。こうして若さと美貌を取り戻した彼女は、その後、年下のポーランド王に求婚され、結ばれたという。

もっとも、「14世紀ハンガリーの王女エリザベート」というのが具体的に誰を指すのかははっきりしておらず、この逸話は後世の創作だともいわれている。

また、「ハンガリー・ウォーター」という名の香水が最初に文献上で確認されるのは、17世紀に入ってからのことだ。

 

貴族が香水を使った切実な理由

ともあれ、16世紀以降、アルコールをベースとした香水は、ヨーロッパの王侯貴族や裕福な市民のあいだに急速に広まっていった。

だが、その普及の背景には、たんに香りを楽しむという以上の切実な理由もあった。当時のヨーロッパでは入浴の習慣が一般的でなく、何日も入浴しないことで強まる体臭を抑えるために、香水が必要とされたのである。

ただ、ヨーロッパの人々が昔から入浴しなかったわけではない。古代ローマ時代には大規模な公衆浴場があり、キリスト教が普及すると公衆浴場は不道徳なものとして一時期禁止されたこともあったが、11世紀以降、また復活していた。

しかし、14世紀に黒死病(ペスト)が大流行し、西ヨーロッパの総人口の3分の1が死ぬほどの猛威を振るうと、公衆浴場は病気の感染を広げる場として全面的に禁止されることとなった。

そこからさらに、「水や湯を浴びると病気になる」という迷信が広まり、ヨーロッパでは入浴の習慣が廃れてしまったのである。

17世紀のフランス国王で太陽王とも呼ばれたルイ14世などは、生涯に3回、あるいは1回しか入浴しなかったと伝えられている。これでは、体臭を抑えるために香水が必要とされたのも当然だろう。

一応、ルイ14世の名誉のためにつけ加えておくと、彼は不潔な状態を好んでいたわけではない。その証拠に、ルイ14世は日に3度も下着を替えていたという。

香水作りは、はじめイタリアで発展した。だが、1533年にメディチ家のカトリーヌ・ド・メディシスがフランス王家の第二王子で、のちのアンリ2世に嫁ぐ際、お抱えの調香師ルネ・ル・フロランタンをフランス宮廷に連れてきたことで、以後、フランスでも香水作りは盛んになっていった。

とくに、先に名前を挙げたルイ14世は大の香水好きとして名を馳せ、フランスの宮廷では香水が大流行した。

だがルイ14世の時代、宮廷で香水が人気となったのには、体臭を抑えるという以外の理由もあった。

1682年、ルイ14世はヴェルサイユ宮殿を建てるが、この城には極端にトイレが少なかった。

そこで、城を訪れた人々は便意や尿意を催すと、豪華な庭園で地面にそのまま用を足すほかなかった。

この時代に登場した婦人用の腰の部分が大きなドレス(バッスルスタイルドレス)は、じつは女性が尻まくりをせずに、その場でしゃがんで用を足すために考案されたものだ。

貴族たちのなかには、召使いに携帯用便器を持たせてヴェルサイユ宮殿を訪れる者もいた。だが、召使いたちは便器に溜まった汚物を宮殿の庭園に捨ててしまっていた。

その結果、ヴェルサイユ宮殿は耐え難い糞尿の匂いに包まれることとなり、それを誤魔化すためにフランスの宮廷では香水が大流行したのである。

 

マリリン・モンローの名言

こうした経緯がありながらも、しだいに香水は一般の人々にも広まっていき、18世紀に入ると、ヨーロッパの大都市では香水専門店も見られるようになっていった。そして、西洋文化の重要な一部となった。

そんな香水にまつわる伝説的な名言を、20世紀アメリカの女優マリリン・モンローが残している。

1952年、モンローは雑誌の取材で記者から「あなたは、寝るときなにを着ているのですか?」と尋ねられた。すると彼女は、「シャネルの5番だけ」と答えた。

ようするに、香水だけつけて裸で寝ているという意味だ。モンローらしい、色っぽくも機知に富んだ返答といえるだろう。

なお、「シャネルの5番」は、1921年にフランスのファション・デザイナーであるココ・シャネルが、自ブランドの商品として初めて発表した香水である。モンローの発言によって、「シャネルの5番」の売上は格段に上がったともいわれている。

ところで、モンローの発言にも見られるように、香水は基本的には直接肌につけて使うものだ。古い時代の香油も肌につけて使われた。こうした香りの楽しみ方は、世界中で普遍的なものである。

だが、日本では歴史的に香料を直に肌につける文化は生まれず、衣服に香を焚きしめたり、部屋に香の香りを漂わせたりといった間接的な楽しみ方をされてきた。これは、日本の香りの文化の特徴といえる。

*      *      *

「香り」や「匂い」は映像や音と違い、記録に残しづらいものだ。しかし、それゆえ強烈に記憶に残ることがある。

20世紀フランスの作家マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』のなかに、主人公がマドレーヌを紅茶に浸した瞬間、その香りによって幼少期を思い出す場面がある。

そこから、特定の「香り」や「匂い」と結びついた記憶や感情が呼び起こされる現象を、心理学では「プルースト効果」と呼んでいる。

あなたにとって、もっとも思い出深い「香り」や「匂い」はなんだろうか――。

プロフィール

奈落一騎(ならく・いっき)

文筆業

歴史、宗教、哲学、文芸などを対象に幅広く執筆。著書に『江戸川乱歩語辞典』『競馬語辞典』『門外漢の仏教』『スーパー名馬伝説』、グループSKIT名での共著に『元号でたどる日本史』などがある。

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