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1966年に恵比寿から消えた「景丘町」 ビールのブランド名に置き換えられた地名

2025年01月27日 公開
2025年01月27日 更新

今尾恵介(地図研究家)

恵比寿から消えた地名

地名はさまざまな状況で命名され、それがいろいろな都合で変化し、追加され、統廃合され、あるいは復活し、またあるものは消えていきます――そう語る地図研究家の今尾恵介氏は、著書の『地名の魔力』で様々な事例を取り上げている。地名の変化は、住みたい街として人気の「恵比寿」一帯でも起きており、1966年にはひとつの地名が消滅していた。

※本稿は、今尾恵介著『地名の魔力』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです

 

そこかしこがビール名に置き換えられた

1966(昭和41)年に東京都渋谷区から、景丘町(かげおかちょう、現恵比寿東一丁目および恵比寿三丁目と四丁目)の名が姿を消して早くも半世紀以上が経ち、この町名を知る人も少なくなってきた。

最寄り駅は、JR山手線の恵比寿である。この駅は1901(明治34)年の開業だが、もともとはビール会社の原料などを運ぶための貨物駅として発足したため、ビールの商標を(おそらく気軽に)名乗ったようだ。

当初の営業範囲を示す公文書にも「日本麦酒株式会社に発着する貨物のみ取扱ふ」とある。それが後に旅客を扱うようになった。おそらく沿線人口が増えて地元からの要望があったのではないだろうか。

山手線の駅名になった影響は絶大で、1928(昭和3)年に恵比寿通という町名が誕生したのを始まりに、戦後になると一帯は恵比寿と恵比寿東、西、南が登場して広範囲がビールのブランド名に置き換えられていった。その中で消えていった町のひとつが、景丘町である。

 

目黒川の谷を望む「景勝の地」として

恵比寿通と同じ1928(昭和3)年に誕生したこの町名は、エリアの大半を占めていた豊多摩郡渋谷町大字下渋谷の小字「欠塚(かけづか)」にルーツをもつ。都市化が急速に進んでいたこの地区で町名を設定する際に、目黒川の谷を望む景勝の地として「佳景丘(かげおか)」が提案され、景丘に落ち着いたのだという(『角川日本地名大辞典』)。

まだ欠塚の時代であった1919(大正8)年に創立したのが、現在の渋谷区立加計塚(かけづか)小学校だ。学校名には地名を採用することが多いが、「欠」の字を入れるのには抵抗があったためか、「好字」に入れ替えている。一帯が見渡す限り「恵比寿地名」に変貌した今、読みだけとはいえ小学校名が歴史的地名の記念碑の役を果たしているのは貴重なことではないだろうか。

 

地名は失われても、地形は失われず

そもそもカケまたはカキのつく地名は、崖に由来するものが多く、全国的に見れば欠の他に掛、影、陰、懸、加計、垣、柿などさまざまな字が当てられる。

恵比寿付近で崖といえば、目黒川が土砂を堆積させて作った沖積地と、これを俯瞰する台地の境界を成す裾の部分が急斜面になっており、これを指したものだろう。

この急斜面を山手線の電車は、五反田駅付近から少しずつ上り、目黒駅の先にある目黒川と渋谷川の分水界を過ぎて、恵比寿駅への下り坂へ続く。その分水界あたりを流れていたのが三田用水である。遠く西多摩の羽村で取水して武蔵野台地を流れ下る玉川上水からの分水で、江戸時代初期の1664(寛文4)年に通水した。この用水沿いにビール工場が建設されたのも、良質な水が安定して得られたからである。

カケの地名は失われたが、その崖地を、山手線の電車は毎日数え切れないほど上り下りしている。崖の上を高く流れる用水が工場を立地させ、そこで製造される黄金色の飲料ブランドが駅名となり、やがて町名になった。

 

【今尾恵介】
地図研究家。1959年横浜市出身。明治大学文学部ドイツ文学専攻中退。一般財団法人日本地図センター客員研究員、日本地図学会「地図と地名」専門部会主査などを務める。著書に『地図マニア 空想の旅』(集英社インターナショナル/第2回斎藤茂太賞受賞)、『今尾恵介責任編集 地図と鉄道』(洋泉社/第43回交通図書賞受賞)、『地名崩壊』(角川新書)、『地図帳の深読み』(帝国書院)、監修に『日本200年地図』(河出書房新社/第13回日本地図学会学会賞作品・出版賞受賞)など多数。

 

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