↑陳勝・呉広が挙兵した大沢郷の渉故台(写真:筆者、以下同)
大ヒット漫画『キングダム』を読み、秦王政、のちの始皇帝に興味を抱いたという方も多いだろう。彼の時代を知るための史料といえば『史記』があるが、その中には、始皇帝の死後に、反乱の旗を掲げた二人の男が描かれている。彼らはなぜ、兵を挙げたのか。
※本稿は、島崎晋著『いっきに読める史記』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです
↑陳勝・呉広の挙兵の場面(陳勝墓を囲む壁に展示されたもの)
陳勝(ちんしょう)は陽城(ようじょう)、呉広(ごこう)は陽夏(ようか)の出身である。
陳勝は若い頃、人の田を耕す作男になったことがある。あるとき彼は仕事の手を休めて、いっしょに働いている仲間に言った。
「たとえ富貴の身になっても、お互い忘れないようにしような」
仲間は笑いながら、「おまえは作男のくせに、何が富貴の身だい」と返した。すると陳勝は大きくため息をつきながら言った。
「燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」
秦の二世皇帝の7月、課税免除の貧民までが徴発され、北方の漁陽(ぎょよう)の守備にあてられることになった。陳勝と呉広もともに順番としてこれに組み入れられ、屯長(とんちょう)になっていた。
途中、大雨にあい、道路が不通になったことから一行は大沢郷(だいたくきょう)で足止めをくらった。これでは期日に間に合いそうにない。秦の法では、期日に遅れれば全員が死刑となっている。そこで陳勝と呉広は相談した。
「いま逃亡しても死ぬことに変わりはない。ひと旗あげても死ぬことになる。同じ死ぬなら、大きいことをやって死んだらどうか」
陳勝は言った。
「天下は秦に苦しめられて久しい。聞くところによると、二世皇帝は末子で、本来、帝位につくはずではなかった。帝位につくはずだったのは扶蘇(ふそ)だ。扶蘇は始皇帝をたびたび諫めたので、疎んじられ、辺境にやられるはめになった、とのことだ。
いままた、罪がないのに二世皇帝が扶蘇を殺したと聞く。世間の人びとは、扶蘇の賢明さについては話に聞いているものの、彼の死についてはまだ知らない。
また、項燕(こうえん)は楚の将軍として数々の功績があり、士卒を大切にした。楚の人びとは彼に心を寄せ、死んだと思っている者もいれば、逃亡したと思っている者もいる。いま、われわれがこの衆を率いて、公子の扶蘇と項燕だと自称し、天下に名乗りをあげれば、応ずる者が多いにちがいない」
呉広はそのとおりだと思って、占い師のところへ行き、占ってもらった。占い師は彼らの意図を察して言った。
「あなたのすることはすべて成功するでしょう。鬼神を利用することですね」
陳勝と呉広は喜んで、具体策を話し合い、「これは、まず人びとを驚かせよということにちがいない」との結論に達した。そこで布きれに赤い文字で、「陳勝王」と書き、それを網にかかった魚の腹の中に入れておいた。兵卒がそれを煮て食べたところ、腹の中から書きものが出てきたので、みな訝(いぶか)しんだ。
ついで陳勝は呉広を近くの祠(ほこら)に潜伏させ、夜、篝火をともし、狐の鳴き声をまねて、「大楚が興る。陳勝が王だ」と叫ばせた。兵卒たちはみな驚き、一晩中ぶるぶると震えていた。あくる日、兵卒の誰もが昨夜のことを口にし、誰もが陳勝を指さし、彼に視線をやった。
↑挙兵した陳勝と呉広の誓いの儀式(陳勝墓を囲む壁に展示されたもの)
↑陳勝・呉広の挙兵に、各地の豪傑が呼応した様子(陳勝墓を囲む壁に展示されたもの)
呉広は日頃から面倒見がよかったので、兵卒の多くは彼のためによく働いた。引率の尉(い)が酒に酔ったのを見て、呉広はわざと逃亡を公言した。尉を怒らせて、自分を辱めるよう仕向け、そうすることでみなの怒りをかきたてようとしたのである。果たして、尉は呉広を鞭打った。そのとき、尉の剣が落ちたので、呉広は立ち上がり、それをひろって尉を斬り殺した。そこへ陳勝が加勢して、残りの二人の尉も斬り殺した。
かくして陳勝と呉広は兵卒を集めて、つぎのように言った。
「おまえたちは全員、雨のせいで期日に間に合わず、このままだと死刑だ。たとえ許されても、辺境の守備につく者は十人のうち六、七人は死ぬのが定め。そもそも一人前の男子たる者、死ぬと決まったならば、大いに名をあげるのみ。王侯将相(おうこうしょうしょう)いずくんぞ種あらんや」
すると一同は「謹んで命令に従います」と答えた。
そこで陳勝と呉広は公子の扶蘇と楚の将軍の項燕だと詐称した。これは人びとの意向に従ったまでだった。彼らは敵味方を区別するため、右肩を肌脱ぎし、大楚と称した。祭壇をつくって誓いをたて、尉の首を捧げた。陳勝はみずから将軍となり、呉広は都尉となった。
反乱軍は連戦連勝を収め、陳に近づいた頃には、戦車六、七百乗、騎兵一千余騎、兵卒数万にもなっていた。陳を占領すると、土地の長老や豪傑たちのすすめに従い、陳勝は王位につき、国号を張楚(ちようそ)とした。
その後も反乱軍は勝利を重ね、陳勝は秦の都を攻撃するべく、陳の賢者である周文(しゅうぶん)に将軍の印を与え、西方へ進撃させた。反乱軍に合流する勢力があとを絶たず、函谷関(かんこくかん)に達したときには、戦車一千乗、兵卒は数十万人になっていた。
一方、秦では驪山(りざん)の労役に駆り出されていた徒刑者や奴隷の子弟をその束縛から解放し、新たな軍を急造した。指揮官には少府(しょうふ)の章邯(しょうかん)が任じられた。章邯率いる秦軍は周文を完膚なきまでに打ち破った。章邯は勢いに乗じて、各地の反乱勢力をつぎつぎと撃破していった。
呉広は仲間割れで殺された。陳勝も王と称してから半年後に殺された。
↑陳勝の墓(河南省永城市)
更新:11月21日 00:05