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伝説のルンガ沖夜戦で戦った栄光の駆逐艦のその後、そして敗れゆく日本

2024年08月13日 公開

半藤一利(作家)

 

次々と突入し、潰えていく日本海軍の艦艇

昭和19年も末になった。「皇国ノ興廃コノ一戦」に賭けた6月のマリアナ沖海戦(あ号作戦)、10月のレイテ沖海戦(捷一号作戦)において、日本海軍の各艦艇は夏の虫の火に入るがごとく突入して潰えた。

駆逐艦111隻を擁して太平洋戦争に突入し、昭和19年上半期までに建造された新鋭艦31隻を加えれば、駆逐艦は142隻の多きを数えた。しかし、19年上半期までに実に80隻が失われ、20隻余が重傷の身を工廠に横たえていた。海に浮かぶのはやがてまた海に沈むためなのであろうか。

長波の最後を語るときがきた。あ号作戦にも捷一号作戦にも残されたルンガ沖夜戦の最後の1艦・長波にはレイテ沖海戦敗北のあとに、最後の試練が待ち受けていた。昭和19年11月下旬、フィリピンのレイテ島の裏側オルモック湾、そこが長波の墓場となった。

レイテ島に米軍上陸とともに、ガダルカナルの戦いの二の舞いをせぬためにも、日本軍は一刻も早く大兵力を送り込んで、米軍陣地が固く築かれぬうちに敵を追い落とそうと最後の力をふりしぼった。

付近の島々から陸軍部隊二個師団以上を、海軍艦艇によって輸送しようという強引な作戦を敢行したのである。しかし、日米の力のバランスはもはや比較にならなくなっている。

味方航空機の援護は絶望であり、敵機と潜水艦の自由に跳梁する海面を強行突破しようというのである。すでに力の限界を超えていた。成功はおろか、生きのびる期待すらもつことはできなかった。

しかし、作戦は個人の感情をかえりみるいとまもなく強行された。将兵は黙々と、そして倉皇として出撃準備にかかる。いかにデスペレイトな戦いであろうと、駆逐艦乗りは忠実に、そして泰然と荒海にのり出していく。

 

ついに駆逐艦「長波」も沈み、戦死者は静かな眠りについた

豪快さなどかけらもなく、栄光もない。どこまでつづく死の行進。多くの人間が血を流した戦争という残酷な歴史の上を、いままた敗残の部隊がよろめきながら一かたまりとなって進んでいく。このうえ、歴史に何を書き加えようというのか。悲惨をか。徒労と犠牲をか。憤怒をか。あるいはまた、人間の愚劣をか。

11月11日、長波は、二水戦司令官・早川幹夫少将の指揮のもとに、駆逐艦島風(旗艦)、浜波、朝霜、若月、駆潜艇一、掃海艇一とともに、陸兵2200名を乗せた輸送船5隻を護り、オルモック湾に入った。待つまでもなくレイテ島の山の向こうから大爆音が聞こえてきた。息苦しいような時間が静かに経過していった。

檣頭の戦闘旗がはためく。戦闘の幕あきは常に同じようであった。午前10時、長波艦長・飛田清中佐の「対空戦闘」の号令はいつもの落ち着きと鋭さをもっていた。

アメリカの戦史家サミュエル・モリソン教授はその著『第二次世界大戦海軍作戦史』に、このときの戦闘を簡単に記述する。

「午前6時、シャーマン少将指揮の機動部隊はサン・ベルナルジノ海峡200浬沖にあり、偵察機を発進させた。この機の日本部隊発見報告とともに、45分以内に347機の攻撃機を発進させた。オルモックの約1浬沖で攻撃は開始され、まず輸送船が残らず沈められた。第2波は、約25から30機の敵航空機の反撃を受けたが、うち16機を撃墜、そして爆撃を開始し4隻の駆逐艦を撃沈した。浜波、長波、島風と若月である。アメリカ軍はわずか7機を失ったのみであった」と。

350機といえば、真珠湾攻撃の日本機動部隊の攻撃機より、わずかに10機足らない大編隊である。駆逐艦5隻の力だけでどれだけ堪えよというのであろうか。しかも狭い細長い入り江であった。いまにも泣き出しそうな空であったという。長波の戦死者258名はいま静かな眠りについた。

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