つづいて、斎藤一がなぜ会津戦争で会津に残留し、その後も会津藩士として明治を生きたのかを探ります。そこに一の生き方が象徴されているように思われるからです。
慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いに旧幕府軍は敗れ、新選組は江戸に戻ります。そして甲州の戦いで再び敗れ、再起を期す中、京都以来の幹部である永倉新八、原田左之助は隊を離脱しました。
これによって残った副長助勤は一のみとなります。一はあくまで近藤、土方との絆を重んじたのでしょう。
近藤らは負傷者を会津に先発させることにし、20数名を一に託します。会津藩の世話になる以上、幹部の一を赴かせるのは礼儀上から当然です。一方、近藤らは兵を募り、隊伍を整えて会津に向かうつもりでしたが、下総流山で調練中、新政府軍に包囲されます。
近藤は他の隊士を脱出させるため、自ら新政府軍の本営に出頭し、処刑。土方は近藤救出を図りますが叶わず、大鳥圭介らの旧幕府軍に加わり北関東を転戦、足に負傷して会津に入り、一たちと再会しました。
閏4月5日、新選親130余名は会津藩の命を受けて白河に向かいますが、負傷した土方に代わり隊長を務めたのが一でした。この時、新選組は会津公(現藩主松平喜徳か前藩主容保)に謁見しています(『中島登覚書』)。
同25日から始まった白河口の戦いで一らは奮戦し、一度は新政府軍を撃退しますが、敵の反攻の前に白河城を奪われ、以後、何度か奪回を試みるものの果たせません。藩主松平喜徳は6月4日、猪苗代湖南の福良村で新選組を親しく閲兵し、敢闘をねぎらっています。
会津藩が二本松方面に備える要衝・母成峠の守備を新選組に命じたのは、8月半ばでした。一は新選組を率いて出陣し、会津軍・旧幕軍とともに布陣しました。
21日からの母成峠の戦いは奮戦空しく、味方は1日で敗走。敵は若松城下に迫り、会津藩は23日より籠城を強いられました。同日、土方は援軍を求めて庄内藩へ向かいます。
24日、すでに城下を敵が包囲する中、一ら新選組や大鳥率る旧幕府軍は城北の塩川村にありました。大鳥は諸隊長を集め、戦況が悪化し弾薬や食糧も不足する中、善後策を謀ります。そしておそらく会津からの撤退案も出る中で、一は次の言葉を発しました。
「ひとたび会津(へ)来たりたれば、今、落城せんとするを見て志を捨て去る、誠義にあらず」(『谷口四郎兵衛日記』)
会津の援軍として来ているのに、落城が近いと見て撤退するのは、「誠義」にもとる。それが一の信念でした。また、その背景として、「新撰組、先だって会侯附属に相成り…」(『凌霜隊副隊長速水行道日記』)と、先頃、新選組が会津藩直属部隊となっていた事情もあったでしょう。
新選組が会津藩の部隊である以上、最後まで会津藩とともに戦う。それが新選組隊長としての自分の責務である、一はそう信じたに違いありません。
最後まで会津藩とともに戦うという一の願いは、予想外の展開の中で実現されます。9月4日、1小隊を率いて如来堂に応援に赴いた一たちは翌5日、激戦に巻き込まれ消息不明となり、全員討死と味方から判断されました。
大鳥ら旧幕府軍は9月10日に福島を目指して会津を離れ、戦場に離散していた一らは必然的に置き去りとなるのです。しかし一は、如来堂を脱した隊士とともに他の会津藩兵と協力して、9月22日の降伏の日まで、城外であくまで戦い続けました。
降伏の際、一は新選組隊長山口次郎ではなく、朱雀寄合隊士一瀬伝八と名乗っています。会津藩士の記録に「斎藤一事 一瀬伝八」とあり、会津藩士たちも承知の上でした。一瀬という会津に多い苗字から、改名は会津藩士たちが一に勧めた可能性もあります。
近藤の処刑を思えば、会津藩直属とはいえ新選組隊長を名乗るのは危険が高い。最後までともに戦った一を無駄死にさせたくない、会津藩士たちがそう考えても不思議ではありません。
その後、降伏した藩士たちは越後高田に送られますが、明治2年(1869)に一は収容所を脱走し、名を藤田五郎に改めました。改名は、脱走したことで会津の人々に迷惑をかけないためでしょう。
なぜ一が脱走したのかは想像する以外にありませんが、あるいは箱館戦争の噂に接し、仲間のもとに駆けつけたいという思いにかられたのかもしれません。
しかし一は明胎3年、あえて斗南に赴き、会津藩士と塗炭の苦しみをともにします。会津の恩義に応え、会津藩士として明治を生きる決意の表われだったのでしょう。
やがて会津の女性と結婚し、元会津藩家老・佐川官兵衛や山川浩の後押しで警視局(後の警視庁)に入り、西南戦争出征後も警察官として生きました。その一方で、永倉新八らとともに明治9年(1876)の新選組慰霊碑建立に尽力、多数の会津戦争の犠牲者が眠る旧若松城下の阿弥陀寺に眠っています。
新選組副長助勤としてあくまで近藤、土方とともにあり、会津で土方から新選組を託され、新選組が会津藩直属部隊となるや、新選組隊長として会津戦争を戦い抜き、さらに明治後は会津の恩義を重んじ、新選組としての誇りを失わなかった男…。一の足跡を追うと、そんな姿が見えてくるように感じられます。
私は、一はもとより新選組隊士は皆、時代に翻弄された普通の人間であったと捉えています。
しかしそんな普通の人間が激動の時代の局面、局面において、大勢に流されるのではなく、自分の信じるものに従って決断し、「士道」を通そうと努めました。それが新選組の魅力の1つですし、斎藤一の筋の通った生き方も、まさにそれに重なるものなのです。
更新:11月22日 00:05