↑後鳥羽上皇流刑屏風絵(画:さかもと未明)
誰もが知る歌集『小倉百人一首』の誕生には、知られざる謎があった――そんな着想から、さかもと未明氏が脚本をてがけた音楽劇『TAMASHIZUME』が上演される。『小倉百人一首』に隠された謎とは、その裏にあった人間関係とは......。
↑二尊院本堂
「小倉百人一首についてお調べなら、まず二尊院に行きましょう。藤原定家が百人一首を編んだという、時雨亭跡があるので」と、タクシー運転手の福留さんが言った。観光タクシー乗務歴30年のベテランだという彼は続ける。
「二尊院の他に常寂光寺、厭離庵と、最低3カ所が時雨亭跡と言われています。あちこちを転々としたとも言われているんですねえ」
私は、来年2024年2月12日に新宿の劇場で上演する、「音楽劇・TAMASHIZUME~情念の百人一首」という芝居の準備のために京都を訪れていた。「自分の足で歩いて選んだ小倉山からの景色を、舞台の背景に描きたい」と、「百人一首しばり観光」をしていたのだ。
到着した二尊院は、実に立派。楓の並木が続く石畳みの参道を上って本堂に着き、「向かって右脇の階段を上ると、時雨亭跡へ行けます」と、福留さんから聞いた。
↑時雨亭跡へと向かう階段
私は持病のため脚や心臓に障害があり、自身では時雨亭跡まで上れなかった。が、1週間後、件の芝居の主役・藤原定家(1162~1241)を演じる浅野和馬氏がこの山道を上り、時雨亭跡への道のりを動画で送ってくれた。
時雨亭跡からは三方を山に囲まれた京都の町を、両手で抱くような大きさで見下ろせる。派手さこそないが、心が落ち着く風景だ。
別の日に常寂光寺の境内からの風景を見たが、よく似ていた。厭離庵も情緒たっぷり。どちらに定家が滞在していても納得だ。たしか監修の池田光璢氏が、「定家の日記として有名な『明月記』にもはっきりした記録がないので、場所の特定が難しい」と言っていた。しかし特定できないからこそ、多くの場所を巡る楽しみがある。
さて、二尊院山門を外に出て右の蓮池の手前、やや上りの小道を進んでいくと、百の和歌の石碑群に出会うことができる。よくこんな立派な石を集めて和歌を彫り込んだものだと感心してしまう。是非訪れていただきたい場所だ。
そのあとは、小倉山の裏手、六丁峠までタクシーで回ってもらい、小倉山Café付近の桂川を望む方面の風景も確かめた。小倉山荘がこちら側の斜面にあったと仮定するなら、紅葉の時期の赤く染まる山の連なりと、右下方に流れる桂川を描ける。史実をとるか、舞台効果をとるか。これから大いに悩むこととしよう。
↑藤原定家の書体を模した色紙。左から、『百人一首』97番に選定された定家の歌、同じく後鳥羽上皇による99番、そして式子内親王による89番(書:鈴木広之)
さて、「百人一首の戯曲化」という仕事を引き受けるまで、私自身は百人一首のことをほとんど知らなかった。
友人の弟さんが薮田翔一という作曲家なのだが、若いのに百人一首や中原中也など日本の古典を歌曲にしていた。曲はどれも美しく魅力に富んでいたが、2017年の音楽の友ホールでの、短い曲を100曲並べて聴く演奏会は少し単調に感じた。
「どうせなら物語の中で歌ってみては?」と気軽に言ったら、姉弟ともに「やってみたい」という。やがて姉君から、脚本の依頼。「しまった」と思った時は、もうひけない空気になっていた。
さて、百首ものばらばらの和歌をもとにストーリーを作り上げるにはどうしたらよいのか。悩んでいた私を、日本文化研究家の池田光璢氏に引き合わせてくれた人がいた。池田氏は快く監修を引き受けてくれ、『絢爛たる暗号』(集英社)という織田正吉の本を紹介してくれた。そしてこの本との出会いが、活路となったのだ。
皆さんは、『百人一首』と三首しか違わない、『百人秀歌』という歌集があるのをご存じだろうか。「藤原定家は何故、このような似た歌集を2つ作ったのか?」。そこに着目した在野の研究家が織田正吉。
彼は「百人一首と百人秀歌は符合しており、謎のメッセージが隠されている」という大胆な説を打ち出した。学会では批判もあるようだが、私は戯曲を成立させるため、この魅力的な仮説を採用した。
さて、小倉百人一首の「謎」とは何か。
定家が小倉山荘で選んだ和歌を色紙にし、息子の舅の宇都宮蓮生(頼綱)に渡したものが小倉百人一首の原型とされるが、定家の日記の『明月記』にも「天智天皇から、家隆、雅経まで」とあるように、百人一首の完全形ではなかったはずだ。
その後、色紙はかなり散逸。定家自身の手によるものは現存する色紙の半分以下とされている。散逸した色紙からどうやって百首を編纂したのかと訝(いぶか)しんでいたが、どうやら完成形の写本が、子孫によって守られていたようだ。
しかしそれは長く秘伝とされ、世に出るには室町時代に連歌師の宗祇(そうぎ)が紹介するのを待たなくてはならなかった。『百人秀歌』に至っては、昭和の時代に宮内庁の書庫から発見されるまで、その存在さえ忘れられていた。かくも偉大な歌人の著作が隠されていたのは何故か。
それは百人一首が、鎌倉幕府に歯向かった2人の天皇の和歌を含んでいたからだろう。承久の乱で鎌倉幕府に反旗を翻し、罪人として隠岐と佐渡にそれぞれ流刑にされた、後鳥羽上皇とその息子・順徳院である。
↑相国寺に立つ藤原定家の墓石(撮影:浅野和馬)
若い頃の藤原定家は、才はあったが出世は遅かった。激しやすい性格だったようで、内裏での歌合(うたあわせ)の会で、ある歌人の頭を燭台で殴った逸話さえある。そんな定家をやはり「風変わり」な後鳥羽上皇(1180~1239)が贔屓(ひいき)し、再び参内できるようにした。2人の蜜月は長く続く。
しかし2人は『新古今和歌集』の選定をめぐり、1220年に決裂する。奇しくも承久の乱の1年前であった。そのため定家は承久の乱に加担せず、幕府から処分されずに済んだ。一方で後鳥羽上皇と息子の順徳院は流刑となる。
決裂の後、定家が内心では上皇を慕っていたとしても、2人の和歌を歌集に入れて発表でもしたら処分される時代だ。だからこそ藤原定家の代表作品であるにもかかわらず、『百人一首』は隠されなくてはならなかった。
これがドラマでなくて何だろう。京都の相国寺に藤原定家の墓を訪ねることができるが、京都御所の北側にあり、「正統派の公家」にふさわしい(こちらも浅野和馬氏が訪ねて写真を送ってくれた)。一方、後鳥羽上皇は流刑のまま隠岐で崩御し、荼毘(だび)に付された。今も残る盛り土だけの火葬塚跡が痛々しい。
後鳥羽上皇の遺骨は、明治天皇の時代に掘り起こされ三千院近くの大原陵(おおはらのみささぎ)に祀られるまで、絶海の孤島で捨て置かれたのである。
私は隠岐までは行けなかったので、ネットの写真をいくつか参考にし、隠岐の浄土ヶ浦に佇む後鳥羽上皇の画を風炉先屏風に描いた。入り江や沖に奇岩がそびえ、荒波が岩に打ちつける隠岐は見事な自然に恵まれ、今では景勝で人気の観光地だ。
しかし800年前は、人もほとんどいない絶海の孤島だったろう。天皇、上皇として栄華を極めた人物が晩年を過ごすにはあまりにも辛い場所だったと言えよう。火葬塚跡の立て看板に書かれている「我こそは新島守(にひじまもり)よおきの海の荒き波風心してふけ」(遠島百首/後鳥羽上皇)が、800年の時間を超え、今も切々と訴えてくる。
今回は、そんな『百人一首』成立の裏の人間関係を掘り起こして音楽劇とした。しかし、ただ後鳥羽上皇の無念を描くだけではホラーになってしまうので、定家の恋のエピソードも入れた。
定家が13歳年上の歌人で元斎宮、後白河法皇の子女の式子内親王(しょくし/しきしないしんのう、1149~1201)を慕っていた逸話は有名だ。
賛否両論あるが、フィクションとしては面白い。通称「定家葛(ていかかずら)」と言われる『定家』という能もある。自分より早く死んでしまった式子内親王を慕う定家の念が葛の葉になって現れ、式子の墓には払っても払っても蔦がまとわりつくという話だ。
定家の墓を相国寺に訪ねたら、西側に車で5分くらいの般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)を訪ねてもいいかもしれない。静かな一角で、式子内親王の墓とされる陵墓を門の左手に見ることができる。宮内庁の管轄で美しく整備されているが、立ち入り禁止とされており、外から眺めるにとどまった。
「定家葛」さながら蔦が覆っている様子ではないが、ミツマタやクマザサなどの緑に囲まれ、枯れた蔦のようなものが石碑の下の方にみとめられる。夏、あるいは昔は蔦に覆われていたのかもしれない。
さて、最後にお茶を濁すようだが、最近の研究では、式子の想い人は法然であったという説が有力だ。そのことを想いながら法然の墓を調べると、最低でも4つの寺、「二尊院」「知恩院」「粟生(あおう)光明寺」「金戒光明寺」「法然院」「西光寺」などに分骨されているとわかった。
偶然なのか、定家の墓と式子内親王の墓を4方向から挟むようにそれらの寺がある。死んでなお、恋や恨みとその因縁が続いているというのは考えすぎだろうか? でも、法然がじっと2人を見守っているようなドラマをつい想像してしまう。
だから歴史は面白い。歴史にいざなわれていく旅の道も又。
(舞台情報)
さかもと未明プロデュース・脚本・演出
「音楽劇・TAMASHIZUME~情念の百人一首」
2024年2月12日(月・祝)
詳細は下記オフィシャルサイトへ
https://japanartmediaproject.amebaownd.com
更新:12月10日 00:05