次に具体例として、信長に関して、論点とされている主な4つの点を、私の個人的な見解とともに紹介していこう。
1. 信長が目指した「天下」の概念とは
戦国史においては、従来、「日本全国」を指す言葉として「天下」が用いられてきた。しかし近年では、「天下」とは主に「畿内」を指す言葉とされている。そして各大名は日本全国の統一など目指しておらず、単純に自国の領土を広げることのみに注力していたとする考えが一般的になってきた。
また、信長は美濃を手中にするや、「天下布武」の印判を用い始めたことから、そのときから全国統一の野望を抱いたと語られてきたのだが、この際の「天下」も、「日本全国」を意味しないとする解釈が広がっている。
とはいえ私個人としては、やはり信長は「天下布武」を掲げた瞬間から全国統一を意識し、その点で武田信玄や上杉謙信ら他の戦国大名と一線を画す存在であったと考えている。
信長はのちに畿内周辺どころか中国の毛利氏、四国の長宗我部氏と相対した。あれだけの軍事的規模と、同時並行で各所に戦いを仕掛ける姿からは、畿内や近国を押さえるだけでなく、「その先」を見越していたと感じずにはいられない。
2. 信長は、室町幕府を転覆させようとは考えていなかった?
信長は「天下布武」を掲げた後、足利義昭を奉じて上洛し、義昭を十五代将軍につけて室町幕府を再興する。
従来は、当初から室町幕府体制の打破を目指しており、義昭と手を結んだのも傀儡政権を築くためであった、とされてきた。
ところが近年、信長と義昭は「良きパートナー」であり、最終的に決裂したのは義昭が信長を裏切ったからで、信長は本来、室町幕府を転覆させようとは考えていなかった、とする見方が有力だ。
しかしこの点に関しては、従来の説も捨てきれないのではないだろうか。確かに、信長と義昭の関係は以前からいわれていたような険悪なものではなかったのだろう。
それでも私は、信長は当初より義昭をトップに置きながらも、自らが実権を握ろうとしていた、つまり「傀儡政権」の樹立をもくろんでいたと考えている。
信長は、義昭から管領や副将軍の役職に就くことを打診されるが、これを拒んでいる。後々、幕府体制を打破するときに、謀反人と誹られるのを避けるためであれば、この行動も腑に落ちる。
3. 一貫して天皇を重んじていた?
信長は、正親町天皇に誠仁親王への譲位を迫り、天皇の大権である暦についても、尾張の暦を採用するように提案している。以上から信長は、朝廷に圧力を加え、既存の秩序を破壊しようとしていたと見られてきた。
しかし近年は、天皇を一貫して重んじていたのではないかと考えられ始めている。譲位はむしろ正親町天皇自身が望んでいたものであり、改暦も現行の暦は不吉の象徴である日食を正しく予測できず(実際、本能寺の変前日の日食は予測できていなかった)、天皇にとって宜しくない、と考えたとする説である。
私も、この点については同じ考えで、従来の朝廷との関係性は見直されるべきであろう。
4. なぜ、「全国統一」に近づくことができたのか
信長が掲げた「天下」の意味や、室町幕府や朝廷との関係性がどうであれ、彼が全国統一に迫ったことは確かである。
近年、信長の「先進性」に異を唱える向きもあるが、この点は揺るがぬ事実であり、「なぜ、信長だけが他の大名とは異なり、全国統一に目を向けることができたのか」は戦国史の大きな命題であろう。
私は、「真実の信長」を紐解くカギは「経済力」だと考えている。
信長は商品流通経済に着目し、商業を盛んにすることで、商人たちの富の蓄積をはかり、その商人たちから冥加金などの形で上納させた。義昭からの副将軍の提示を蹴った信長は、一方で堺と近江の大津、草津を直轄地にしている。
ふつうの大名ならば権威を欲するだろうが、信長はあくまで「実利」を取った。トップがこうした合理的な思考をもてばこそ、織田家は飛躍的に成長し、畿内にとどまらず全国を視野に入れる「余裕」をもてたのだろう。
更新:11月22日 00:05