ところで、この畠山重忠こそ、『吾妻鏡』で最もひいきされている人物だ。怪力だからということではない。畠山に対する人物評が「清廉潔白」「噓はつかない」「潔い」など、褒めちぎっているものばかりだからだ。
敵の砦に攻め入る時、幅15メートルの堀が邪魔して頼朝軍が困っていると、畠山は連れて来ていた工事スタッフ80人に、人海戦術で堀を埋めさせたのだが、この時のことを『吾妻鏡』の作者は、「重忠の思慮はまったく神に通じるものである!(思慮已に神に通ずるか)」とまで褒めちぎっている。神まで言っちゃうか。
奥州合戦(1189年)の恩賞を巡る話し合いにおいても、ひいきがすごい。畠山は、和田義盛が敵と戦っている最中に乱入するは、家来に敵を横取りさせて自分の手柄にするは、やりたい放題だったため、和田義盛が怒って証拠品をそろえて抗議。
だが畠山は、「私が首を持ってきたのだから、疑う理由はないだろう」と、非常に居直った言いわけをした。ところが、『吾妻鏡』はここから数行にわたり、怒濤の畠山弁護ラッシュとなる。
いわく、畠山は後方にいたため、戦場で自分の家来が和田の追いつめていた敵を横取りしたところが見えなかったから、畠山は悪くない。そもそも畠山は清廉な人柄だから、悪意があって和田から手柄を横取りしたのではない。などなど、手を変え品を変え、畠山弁護の論調が続くのだ。
北条氏によって最後は粛清された重忠をここまでひいきにして書くとは、巷間で言われているほど『吾妻鏡』は北条氏びいきの書き方をしていないのではなかろうか。
そう思っていたのだが、『吾妻鏡』の研究書によると、北条義時が父時政を追放したことを正当化するために、「みんなのヒーロー畠山さんを陰謀で殺した時政は悪いお父さんだから、義時くんは鎌倉幕府から追放したんだよ」という筋書きが成立するように、畠山をひいきしまくって記録したという。
慧眼だ。歴史書において、この手の情報操作は常套手段だ。大いに考えられる。しかし、この筋書きが成立するには、真実の畠山がある程度人気がなくてはならない。
この手の歴史書は、まだ関係者やその子孫が生きている段階で書かれるだろうから、彼らに「畠山さんはそんなにイケてなかったッス」と日記にでも書き残されてしまっていたら、元も子もない。だから、真実の畠山もそれなりの人気者だったのだろう。
ちなみにこの考察、畠山の人気についてのものであり、怪力についての考察ではない。つまり、畠山の人気について懐疑的なだけであって、怪力自体を否定してはいないのだ。
3メートルの石を運んだ男、畠山重忠。最期、矢に当たっただけで死んだのが信じられない。
更新:11月22日 00:05