2022年07月29日 公開
一門が次々と自害、討ち死にしていく中、船上で大長刀を振り回し、敵兵をなぎ倒していく平家の武者がいた。「王城一の強弓・精兵」とうたわれた猛将・能登守教経である。
教経は教盛(清盛の弟)の次男で、内乱が始まった時は21歳の若武者であった。都落ち前は、北陸道追討の副将軍として名がみえるだけである。
教経の活躍が始まるのは都落ちの後だ。水軍を率いて安芸、備前、淡路、紀州と転戦し、敵対勢力を次々と倒して平家の勢力回復に貢献した。
個人の武勇も傑出しており、屋島の戦いでは義経の側近・佐藤継信を一矢で倒し、壇ノ浦では船上で義経を追い詰めて「八艘飛び」の逸話を生んだ。そして最期は、敵将2人を道連れに、「死途の山の供をせよ」といって海に飛び込んだという。
これら『平家物語』が描く教経の武勇譚には、多分に誇張も混ざっているだろう。しかし、敵味方を問わず多くの人々が、平家軍の強さや勝利への執念、一門がもつ武家としての誇りを認めていたからこそ、こうした逸話が生まれ、語り継がれたのではないだろうか。
壇ノ浦の戦いの前、総司令官の平知盛は、次のように告げて味方を鼓舞したという。
「並びなき名将、勇士といえども運命が尽きれば力は及ばない。しかし、武名だけは大切にせよ。東国の者どもに弱気を見せるな。今をおいて命を捨てる時はない」
この言葉どおり、平家の武将たちは敗北必至と知りながら、武士としての名誉を重んじて戦い、滅びていった。一ノ谷・壇ノ浦で見せた平家一門の戦いぶりは、文武両道を体現した華麗なる一族の最期の輝きだったのである。
更新:11月22日 00:05