2022年07月29日 公開
一ノ谷の戦いでは、経盛の子の経正・経俊・敦盛、教盛の子の通盛・業盛、知盛の嫡子・知章など多くの公達が討ち取られた。この中でも、17歳で命を落とした無官大夫敦盛の哀話はよく知られている。
父の経盛は一門屈指の歌人で、『千載和歌集』『新勅撰和歌集』などに歌を残したほか、天皇や法親王主催の歌会に参加し、自邸でも催すなど平家歌壇の中核をなした。経盛長男の経正は和歌と琵琶の名手として知られ、末子の敦盛は笛に堪能であったという。
戦に敗れた時、敦盛は沖の船をめざして海に馬を乗り入れた。そこへ近づいたのが、大将首をあげるため汀で待ち受けていた武蔵の武士・熊谷直実である。
直実が「敵に後ろを見せるとは見苦しい。返させたまえ」と扇をあげて差し招くと、敦盛は素直に引き返して直実と組み合った。
無視して逃げることもできたはずだが、武士の矜持が許さなかったのだろう。しかし、百戦錬磨の荒武者にかなうはずもなく、あっさり組み伏せられてしまう。
直実はそこで初めて武者の顔を見て、息子と同年代の容顔美麗な若者であることを知り助けようとしたが、味方の軍勢がやって来たため泣く泣く首を取ったという。
以上は、一般に流布している語り本系(平家琵琶の台本に近いテキスト)の『平家物語』が記す逸話である。一方、長編の『源平盛衰記』では、敦盛は激しい格闘戦を繰り広げ、直実に「心猛き人」と評されている。おそらくこちらが真実の敦盛に近いのだろう。
勇敢に戦ったのは敦盛だけではない。兄の経俊は清房・清定(ともに清盛の子)とともに敵の中に駆け込み、あまたの敵の首をとって一所で討ち死にした。16歳の知章は父・知盛と敵の間に割って入り、父の身代わりとなって討ち取られた。
一見、軟弱に見える平家の公達たちも、屈強な坂東武者に立ち向かう闘志を備えていたことは事実と考えてよいのではないだろうか。
一ノ谷では手痛い敗戦を喫したが、平家はその後も讃岐屋島を拠点に瀬戸内の制海権を保ち、源氏軍を苦しめた。
元暦元年(1184)9月、源範頼が東国御家人を引き連れて西国遠征を開始すると、平家は屋島の対岸の備前児島(岡山県倉敷市)に城郭を築いた。この時、城将として守備についたのが左馬頭行盛であった。
行盛は早世した清盛の次男・基盛の子である。歌人として知られ、忠度と同様、都落ちの際、自身の和歌を師の藤原定家に託し、『新勅撰和歌集』に実名で載せられた逸話が、読み本系の『延慶本 平家物語』に記されている。
行盛は内乱の始まりとなった以仁王の乱から追討軍に名を連ねており、早くからひとかどの武将としても一目おかれていた。一ノ谷で多くの一門を失った後は、一軍の将としてよりいっそうの期待を寄せられたことだろう。
500騎の軍勢を率いて児島に着陣した行盛は、海底に防御の罠を仕かけ、遠浅の海を馬で渡れないようにして源氏軍を待ち構えた。
『吾妻鏡』によると、行盛が波打ち際にいる源氏軍をしきりに挑発したため、源氏方の佐々木盛綱は騎馬のまま、児島に通じる藤戸の海路を3町(約300メートル)ほど渡って平家軍を破ったという。しかし、軍船がないため追撃できず、行盛は水軍を率いて悠々と屋島に引きあげている。
だが、その屋島も翌元暦2年(1185)2月、源義経によって攻略され、翌月、行盛は壇ノ浦で最期の時を迎える。語り本系『平家物語』は、従兄の資盛・有盛と手を取り合って入水したと簡潔に記すのみだが、『源平盛衰記』が描く行盛の最期は壮絶だった。
敗戦を悟った行盛は兜を脱ぎ捨て、鎧の袖を斬り落として身軽になるや、有盛とともに矢を射て多くの敵を倒した。やがて、敵兵が乗り込んでくると、刀を抜いて船中を駆けまわってさんざんに戦い、有盛と首を並べて討ち死にしたという。
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更新:11月22日 00:05