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名人・堀秀政~信長・秀吉から信頼された人柄と器量

2021年12月15日 公開

柴裕之(東洋大学文学部非常勤講師)

戦国武将

織田信長に近習として仕え、信長没後は、羽柴秀吉の元で、越前北庄城の城主になった堀秀政。二人が天下人となっていくなかで、秀政が担っていた役割とは、いったいどのようなものだったのか。

柴裕之(東洋大学文学部非常勤講師)
昭和48年(1973)東京都生まれ。東洋大学大学院文学研究科日本史学専攻。博士後期課程満期退学。博士(文学)。著書に『清須会議 秀吉天下取りへの調略戦』『徳川家康 境界の領主から天下人へ』『織田信長 戦国時代の「正義」を貫く』、編著に『図説 豊臣秀吉』などがある。

※本稿は歴史街道2021年12月号より一部編集のうえ、掲載したものです。

 

斎藤道三の家臣だった父

「名人」と世間に評価された武将・堀秀政。彼は天下人の織田信長や、羽柴(豊臣)秀吉と関わりながら活動した。その生涯をたどりつつ人物像をみていこう。

秀政は、天文22年(1553)に美濃国茜部 (岐阜市)で生まれた。幼名は菊千代、元服してからは通称(仮名)として久太郎を称した。父の秀重は茜部を拠点に活動する土豪で、戦国大名の斎藤道三に仕えていた。その後、秀重は信長が美濃攻略を進めるなかで、織田家に仕えたという。

秀政も父の秀重が織田家へ仕官したのに伴って、信長に見出され、側近くに仕える「近習」となった。江戸幕府(徳川政権)が編纂した『寛政重修諸家譜』では、永禄8年(1565)、13歳の時のこととされる。

この説は、江戸時代に美濃一色氏(斎藤氏は道三の後継・義龍の時代に、一色に名字〔家の苗字〕を改姓している)の居城、稲葉山城(岐阜市)が、永禄7年(1564)に信長の攻撃により落城したとの説を前提にして導きだされたものと判断される。だが現在、稲葉山の落城は永禄10年(1567)8月、または9月であることがはっきりしている。このため、秀政が信長に見出され、近習として仕え始めたのが、永禄8年のことであったという説については、もう少し検討の必要がありそうだ。

さて、秀政の活動がはっきりみられるようになるのは、元亀年間(1570〜73)以後のことである。そして、信長が足利将軍家に代わり、天下人へと歩みだすと、秀政の活動はより一層活発になっていく。
 

信長の信頼厚く、実務を忠実にこなす勇将

では、秀政の活動とは、どのようなものであったのだろうか。まずあげられるのが、信長の意向を指示・伝達し、各方面からの報告や申請などを信長へ上申する、いわゆる「取次」「奏者」といわれる役割である。

前近代の社会において、上位権力者(主君)とのやり取りは、父子の間柄であっても基本的に直接行なうことはできず、その間を仲介する「取次」「奏者」を務める人物が必要であった。

この「取次」「奏者」を務める人物とは、いわば秘書にあたり、上位権力者の側近くに日常的に仕え、信頼の高い人物が務めた。秀政がこの役割を務めていたということは、彼が信長にとって信頼の厚い人物であったことがわかる。

しかもこの役割には、ただ単に主君の意向を指示・伝達し、報告や申請の上申に携わるだけでなく、任務者の判断や助言も加えて進められた。秀政の場合も、申請を受け、それに秀政の判断を加えたうえで、信長への上申が行なわれた事例がみられる。

こうした活動は、織田家内部に止まらず、通交関係のある大名との間においても行なわれた。例えば、天正7年(1579)8月、徳川家康は、対立した長男の信康を三河岡崎城(愛知県岡崎市)より追放した。その際に家康は、秀政にここに至るまでの「取次」「奏者」活動による懇切な応対についての感謝を述べたうえで、信長への報告を頼んでいる。

次にあげられるのは、使者または戦場の監察を行なう「検使」を務めていることである。使者や検使の務めには、主君の意向を十分に熟知していることが求められる。つまり、「取次」「奏者」の活動同様に、これも信長に日常的に側近く仕え、信頼の厚い人物の役割であり、秀政がその立場にふさわしい一人であったことがわかる。

ちなみに秀政は、元亀3年(1572)8月に、対陣する越前朝倉氏の軍勢のもとへ使者として赴き、一戦を遂げるよう誘ったと『信長公記』にみえるが、これが同書での秀政の活動初見でもある。

ついであげられるのは、信長から指示された実務に携わる「奉行」としての活動である。

秀政の奉行としての活動は、織田家蔵入地(直轄地)の経営や、人足の徴発などがみられる。そのほかには、天正7年5月に、近江国安土(滋賀県近江八幡市)の浄厳院で開催された教義論争(安土宗論)において、敗れた日蓮宗信者からの詫証文を受理したり、天正9年(1581)3月には、和泉国の所領調査に際して、同国の家臣や寺社から申告をさせたのだが、それを拒んだ槇尾寺(大阪府和泉市)を軍勢を率いて取り囲んだうえ、織田信澄 (信長の甥)や惟住(丹羽)長秀ら諸将とともに焼き払うなどした活動がみられる。

さらには、菅屋長頼・長谷川秀一・福富秀勝・矢部家定とともに、馬廻衆(親衛隊)を統率する立場にもあった。

また勇将であった秀政は、天正9年9月の伊賀攻めでは、御斎峠を越えて信楽口からの攻撃を担当する部将としても活躍した。

これらの活動からみえてくる秀政像とは、側近く仕える近習のなかで、信長から信頼を得ていて実務を忠実にこなし、戦場では攻め手の一将を務める勇将でもあったという姿であろうか。

そのうえ、後世に伝わるところによると、秀政は上下の隔てなく相手のことを思いやる人物であったとされる。こうした人柄が、信長の寵愛を受けることにもつながったのだろう。それを裏付けるように、近江安土城での彼の屋敷は、一般の家臣とは異なり、信長の寵臣として、城内(安土山中)に設けられていたことがわかっている。

なお、『寛政重修諸家譜』など系譜類によると、秀政は天正9年9月に信長から、重臣の羽柴秀吉の居城であった近江長浜城(滋賀県長浜市)を与えられ、城主になったとされる。しかし、秀吉はその後も城主として、その管轄地域(長浜領)を支配し続けている。したがって、秀政が長浜城主となったという説は誤りだろう。
 

清須会議の結果、三法師の傅役に

天正10年(1582)5月、中国地方で毛利氏勢力と対峙する羽柴秀吉が、信長に救援を求めた。これを受け、信長は惟任(明智)光秀をはじめとした諸将を率い、毛利氏との対決のため、中国地方への出陣を決める。

これに伴い5月末、秀政は信長の出陣に備えて、秀吉に指示を伝え、現場を監察する検使として、先んじて派遣された。

6月2日、信長が惟任光秀に討たれた本能寺の変は、秀政が秀吉のもとへ赴く途中で起きた。

変を知った秀吉は、毛利氏との和睦を結んだうえで、光秀を討つべく畿内へ帰還する。その軍勢に秀政も加わった。

信長の三男・織田信孝を大将に擁した秀吉らの軍勢は、6月13日に光秀の軍勢を山城国山崎(京都府大山崎町)で破った後、光秀の居城であった近江坂本城(滋賀県大津市)を攻めた。秀政はそこで攻囲を担当し、落城に導いている。

その後、近江・美濃両国で光秀に応じた勢力を討滅し、6月27日には、尾張清須城(愛知県清須市)にて、今後の織田家の運営を決める柴田勝家・羽柴秀吉・惟住長秀・池田恒興の宿老四人による話し合い(清須会議)が行なわれた。

この結果、織田家の当主にはまだ幼少の信長の嫡孫・三法師(のちの織田秀信)がなることが決まり、領国内の所領が再配分された。

この際に秀政は、三法師の傅役を任されたうえ、近江国中郡 (滋賀県近江八幡市・東近江市と彦根市の一部)の所領を与えられた。また、坂田郡(滋賀県米原市と長浜・彦根両市の一部)内の織田家蔵入地を経営する代官を、引き続き務めることを認められている。
 

一族以外で初めて羽柴名字を与えられる

その後、織田家内部の主導権をめぐって、信雄 (信長の二男)・信孝兄弟、宿老の柴田勝家と羽柴秀吉との間で政争が生じた。

この情勢のなかで、秀政は秀吉に接近して関係を深めていった。そして、天正10年10月には秀吉の名字である羽柴を与えられ、「羽柴久太郎秀政」と名乗っている。

秀政への羽柴名字の授与は、秀吉が一族以外で名字を名乗ることを認めた初めてのことであった。ここには、秀吉の秀政への期待と信頼がみられる。

翌天正11年(1583)4月の賤ケ岳の戦い後、秀政は東山道と北国街道が分岐する軍事・交通の要衝に立地した近江佐和山城(滋賀県彦根市)の城主となり、その他の所領と合わせて16万石を治めた。さらに、年末には官途名として左衛門督を名乗る立場となった。

一方、賤ケ岳の戦いに勝利し、柴田勝家を討ち果たした秀吉は、織田家内部での実質的な主導者となり、やがて織田家に代わる天下人への歩みをみせ始めていく。

この事態は、三法師が成人するまで織田家当主として擁立された信雄との対立を生み、天正12年(1584)3月、信雄は徳川家康を味方に付け、秀吉打倒に立ち上がる。

信雄は、この際に父信長以来の織田家臣たちにも応じるよう働きかけたが、秀政をはじめとして、多くは実質的な主導者にあった秀吉に味方した。

そして開戦した小牧・長久手の戦いにおいて、秀政は秀吉の甥・三好信吉(のちの羽柴秀次)を大将とし、池田恒興・元助父子と森長可らとともに2万4千人程の軍勢で三河国岡崎(愛知県岡崎市)方面に進軍し、織田・徳川方の尾張岩崎城(愛知県日進市)を攻略した。

ところが密かに追っていた徳川勢の攻撃を受け、岩崎周辺にて三好信吉の率いる軍勢は敗れ、池田恒興・元助父子と森長可らが戦死した。この戦いのなかで秀政は、勢いを得た徳川勢の攻撃を唯一退けるという活躍を果たし、勇将としての器量を示している。

秀吉は、この局地戦では敗北したが、その後の戦いでは戦局を優勢に導き、11月には和睦という形を取りつつも、実際には信雄を降伏へ追い込み勝利を得た。

この勝利によって秀吉は、織田家に代わる天下人の立場を確固とする。

そして天正13年(1585)3月の紀伊国雑賀攻め、6月の四国攻めと、敵対勢力の討伐を進め、秀政はいずれも従軍して活躍した。

秀吉は、自身に忠実な秀政の勇将としての器量と活躍を賞して、閏8月13日に越前北庄城(福井市)の城主とし、越前・加賀両国で18万850石の所領を与えた。さらに、政治的・軍事的配下の与力として、惟住(丹羽)家の元家臣であった溝口秀勝・村上義明を従わせて、合計で29万800石(実際は29万850石)を領有する大名とした。

越前国は、天下人秀吉の政権(豊臣政権)にとって、北国(北陸地方)統治の要地で、賤ケ岳の戦い後は惟住長秀が治めていた。

しかし、天正13年4月に長秀が死去。後継者の長重は若年のため家臣たちをまとめきれず、秀吉にとって北国統治の要となる役割を期待するには不安があった。そこで、長重を若狭国へ移封したうえ、長谷川秀一とともに秀政に白羽の矢を立て、越前国へ入封させたのだ。ここにも秀吉の、秀政への信頼の大きさがうかがえよう。

翌天正14年(1586)正月、秀政は秀吉の推挙によって従五位下侍従となり「羽柴北庄侍従」を称した。さらに天正16年(1588)4月までには、従四位下に昇進を遂げる。その一方で、秀政は天正15年(1587)の九州攻め、天正18年(1590)の小田原合戦と、豊臣政権の国内平定戦に従軍した。

だが、相次ぐ戦による多忙が秀政の体を蝕んでいったのか、小田原合戦中の5月27日に陣中にて38歳の若さで病死してしまう(法名は道哲)。秀吉は、秀政の早すぎる死去を聞き、秀政には小田原合戦後に関東の統治に携わらせようと考えていたと漏らしたとされるように(ただし、この話自体は後世の編纂物によるものである)、その人柄と器量を惜しんだという。

秀政の死後、堀家は嫡男の秀治が家督を継ぎ、慶長3年(1598)4月には、上杉景勝の陸奥国会津 (福島県会津若松市)への移封に伴って越後国に移り、43万石を領有する大名へと発展する。秀政死後も、堀家は引き続き北国統治の要としての役割を秀吉から期待されたのだ。そして秀吉死後、関ケ原の戦いに勝利し、天下人となった徳川家康による江戸幕府の設立後も、堀家のこの役割は引き継がれていく。

しかし、その後継・忠俊は、慶長15年(1610)2月に家中の対立を収められず、江戸幕府によって改易された。ただ秀政の二男親良の系統が続いて、信濃国飯田(長野県飯田市)藩主として幕末を迎えることになる。

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