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難攻不落の金山城と由良氏…上杉、北条、武田の狭間で生き延びた一族

2021年09月06日 公開

鷹橋忍(作家)

 

名跡存続に奔走した女性

国繁の時代となっても、金山城の堅牢ぶりは変わらなかった。天正8年(1580)には、武田勝頼に攻められる。勝頼の軍勢は、金山城下を攻撃し、城から出てきた兵を100人余も討ち取ったというが、それでも金山城を落とせなかった。

ところが天正11年(1538)の10月、国繁と、長尾家を継いだ国繁の実弟で、館林城主の長尾顕長が、北条氏によって、身柄を拘束されるという大事件が勃発した。

この事件については、「北条氏直の招きで、国繁・顕長の兄弟が小田原に行ったところ、2人は氏直に拘留されてしまった。氏直は兵を向け、国繁の金山城と、顕長の館林城の引き渡しを迫った」など様々な話が伝わるが、不明な部分が多い。

いずれにせよ、国繁・顕長の兄弟は小田原城に幽閉され、由良氏は由良成繁の未亡人で、国繁・顕長の母である妙印尼(由良輝子)を中心に、金山・館林の両城での籠城による抵抗を決めた。

金山・館林城の将兵は北条方と戦い続けたが、両城とも、翌天正12年(1584)の年末には北条氏に降伏して、開城したとみられている。

国繁も顕長も幽閉を解かれたが、金山城も館林城も北条氏に没収されてしまう。国繁は桐生城に、顕長は足利城にそれぞれ退去し、所領は大幅に減らされた。金山城には、北条氏の家臣が入った。

だが、由良氏はまだ諦めてはいなかった。

天正16年(1588)8月、国繁は弟の顕長と共に再び北条氏から離反し、金山城を取り戻すべく北条方と抗争を繰り広げる。

しかし翌天正17年(1589)2月、またもや降伏する。幸い、北条氏からは赦免されたが、国繁は妻と共に小田原に在府することとされた。

再び北条氏に敗れた由良氏だが、その北条氏も、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで滅亡する。

小田原合戦時、国繁と顕長は北条氏と共に小田原城に籠城していたが、命を奪われることも、改易の憂き目に遭うこともなかった。なぜなら、妙印尼が手を回していたからだ。

合戦の際、国繁に代わって本拠の桐生城に在城していた妙印尼は、前田利家を通じて秀吉に降伏し、由良氏の存続を秀吉へとりなしてもらった。小田原落城の1カ月以上も前の6月7日付けで、妙印尼は前田利家から、由良氏安堵の意向を伝える秀吉の書状を得ている。

同年8月、秀吉は由良氏に、常陸牛久(茨城県牛久市)に約5400石の知行を与えるとした。妙印尼が最後まで諦めずに、秀吉や利家に働きかけた結果だろう。

由良氏の牛久入封後、金山城は残念ながら廃城となってしまう。また国繁は、関東に移封された徳川家康の与力となり、下総国相馬郡にも1600石余を与えられ、牛久の所領と合わせて、7000石を領した。

国繁の嫡子・由良貞繁も家康に仕えたが、嗣子を残さないまま没したため、牛久領を失ってしまう。だが国繁の弟・忠繁の家督相続が許され、寛文5年(1665)、忠繁の子・由良親繁の代には高家に列した。親繁以降、由良氏は高家として存続し、明治維新を迎えるに至る。金山城への帰還は叶わなかったものの、由良氏は名跡を長く伝えることができたのだ。

由良氏と、巨大勢力を退けてきた金山城は、最後の最後まで望みを捨ててはいけないことを──諦めない者には未来が開けることを、現代の我々に語りかけてくるようである。

 

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