戊辰戦争の中でも、激戦が繰り広げられたことで知られる「北越戦争」。その戦いを主導していたのは、長岡藩の河井継之助だった。しかし、奥羽越列藩同盟の最前線にあたる越後長岡城は、新政府軍の奇襲により占領されてしまう。継之助は直ちに奪還しようとするが…。
※本稿は、『歴史街道』2021年8月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
慶応4年(1868)5月19日(新暦7月8日)、長岡城は薩長を中心とした新政府軍の手により落城した。長岡は北越戦線の最前線に当たる。危機感を抱いた奥羽越列藩同盟軍は、桑名藩の飛び地である加茂へぞくぞくと集結し、新政府軍と対峙した。
長岡の軍事総督河井継之助は、直ちに長岡城を奪還することを主張した。
が、他藩の者は、庄内藩と合流し、兵力の回復を図ることが先決だと、継之助ら長岡藩士の切実な願いを退けた。勝たずとも負けぬ戦で戦線を着実に保てば、ほんの4、5ケ月でこの地は雪に閉ざされる。北越の雪の深さの中で、いったい誰が戦えよう──と。
その通りだと、継之助も他藩の言い分はよくわかる。だが、妙なのだ。
長岡城を落としてからの敵の動きが鈍い。城を盗った勢いを削がず、すぐさま掃討戦を仕掛けるのが常套だが、追撃の手は緩かった。
(そうせざるをえない訳が、奴らにはあるに違いない。今が、好機なのではないか)
継之助は確信したが、他藩が賛同しないのでは動けない。
実際、新政府軍は弾薬も兵も足りておらず、彼らは援軍の到着を待っていた。継之助が焦燥の中で歯嚙みするうち、2日後には新政府軍の軍艦3隻が越後海域に到着し、物資の補給が可能になった。さらに3日後には会津の軍艦が沈められた。制海権は新政府が握った。これで新潟を占拠されれば、エドワード・スネルによって海路、新潟港へ運ばれていた同盟軍側の補給が断たれる。
それ見たことかと継之助は苛立ったが、城を奪われた長岡藩と他藩の間には、最前線の拠点となる長岡城を取り戻すことへの執念に、埋めることのできぬ温度差があった。
継之助率いる長岡兵が、新政府軍に占拠されていた今町を奪取した後、両軍は50日間に及ぶ膠着状態となった。
同盟軍は、国際貿易港新潟の支配権の公認を米欧列強から取り付ける交渉を行なっていたし、新政府軍は、他の戦場から援軍が来るのを待っていた。
継之助は、戦前から密偵役をこなしていた渋木成三郎を、敵地となった長岡城下に潜伏させた。渋木が、命懸けで収集した情報を携え、継之助の元に戻ってきたのが7月15日。渋木曰く、新政府軍は兵力の補完を2日後には終え、総攻撃に向けて動き始めるという。
同盟軍側は、旧幕府海軍を率いる榎本釜次郎(武揚)が援軍として駆け付け、制海権を奪ってくれるのを切望していたが、もう待っていられぬ事態となった。
幕府が米国から買い付けたが、瓦解したため受け取り手が宙に浮いた、ストーンウォール・ジャクソン号という甲鉄艦がある。この軍艦を手にした側が制海権を握るのは間違いないと言われる、化け物級の性能を誇る軍艦だ。
このため、新政府、旧幕府海軍、そして継之助ら奥羽越列藩同盟軍の3者が、支払われていない残金を払うから自分たちにこそ渡してほしいと、米国側と交渉を続けている最中であった。米国は、今のところ局外中立の立場を守り、何れにも軍艦を渡そうとしない。
継之助は、長岡城を取り戻すことで戦線を押し戻し、列強に自分たちの力を示す以外、交渉を有利に運ぶ手立てはないと踏んでいた。
(城を奪還し、わずかな期間を堪えれば、雪が降る。屋根を越える雪に閉ざされる冬を味方に、諸外国とも薩長とも談判できれば……)
まずは戦を終わらせたい。できれば、独立自治を勝ち取りたい。夢物語と笑う者も多いが、新政府側の思惑とは別に、諸外国に認められれば、国際法上、理屈では可能なのだ。
新政府側の総攻撃より前に、長岡城を奪取することを継之助は決意した。渋木の話では、手薄な場所は長岡城北方、八町沼方面しかないという。
八町沼は、進軍は不可能に近いと言われる、長岡城を守る天然の要害だ。萱や葦が生い茂る、泥沼の大湿地帯である。
(八町沼を越えていく)
継之助は、決意した。ここ数日の雨で、沼は湖のように水を湛え、いっそう足を踏み入れるのが困難な地と化している。敵も長岡軍が沼から現れるとは思うまい。
継之助は、目立たぬよう沼地に生きる漁師らを使い、予め沼の行路に土を盛り、水の深い場所には簡易な橋を渡し、迷わぬための道しるべも立てた。一方で、計画が漏れぬよう全軍を栃尾から見附へと後退させた。
23日、継之助は長岡軍諸将を集め、
「明日の夜、八町沼を越え、我らの悲願、長岡の城を恢復するぞ」
初めて心の内を告げた。みなの目に光が宿る。不可能と言われる八町沼越えだったが、反対する者は1人もいない。
八町沼の行軍は、おおよそ3刻に及ぶ過酷なものとなった。月影が白く水面に跳ね、渡る長岡勢を明るく照らし出す。敵方への発覚を恐れ、継之助らは身を伏しては雲間に月が隠れるのを待ち、進んでは伏せることを繰り返した。冷たい泥水に時に太ももまで浸かり、誰もが容赦なく体力を奪われた。が、もうすぐ落城の雪辱を果たせる。その一事が、長岡勢を強くした。
沼の半分まで続く大蛇のごとき長い列となったが、継之助は後続隊の到着を待って、沼地を抜けた。
その後も音を立てず、夜陰に紛れ、各隊が予め決めた配置に付く手筈となっていた。準備が整ったところで烽火を上げ、長岡の周囲に待機している同盟軍と共に、一斉に敵に襲い掛かるのだ。
が、見張りの薩摩勢を眼前に、誰かが恐怖に負けたらしい。ふいに銃声が鳴り響く。たちまち激しい銃撃戦へと雪崩れ込んだ。それを合図に、同盟軍の台場から、砲口が火を噴く。
始まってしまったものは仕方がない。
「長岡勢2千人、城を枕に討ち死にするため戻ってきたぞ。さあ、殺せ、殺せ」
臨機応変に怒号した継之助の声を合図に長岡勢は弾雨を潜り、「殺せ、殺せ」と叫びながら敵塁を抜き、それぞれの戦地へと疾駆した。実数は7百ほどだが、2千と偽りを口にすることで大軍のように見せかけたのだ。
継之助は本隊を率い、城西方へと走る。沼から上がれば、城まで1里半。僅かな敵を蹴散らしただけで容易に城門へ到着した。
その道々、気配を察した領民たちが、継之助らの掲げる五間梯子の旌旗を目にし、ぞろぞろと外へ飛び出してくる。
「牧野様の御旗だ。牧野様がお戻りになられたぞ。どれほどこの日を待ちわびたことか」
騒ぎ始めた声を拾い、
「総督……民が我らを迎えてくれております」
継之助の横に付き従う兵が感無量の態で涙を滲ませた。継之助の胸も熱くなる。
(会津で待つ殿さんに、見せてやりたいぞ)
城は焼け落ち、荒廃していた。城門を潜る継之助の心は、不覚にも震えた。
新政府軍が城内に陣を張らなかったため、渋木の報告にあった通り、そこは無人だ。連中は、町中に宿陣している。今頃は配下の手により、随所に火の手が上がっていることだろう。
更新:11月22日 00:05