知覧から特攻出撃し、エンジントラブルのために屋久島に不時着した佐藤亨氏の、その後の運命からも目が離せないが、東京に帰る飛行機の時間が迫っているので長居はできなかった。
来る時には気付かなかったが、太刀洗駅の一角にはレトロステーションがあり、自衛隊の練習機が空を飛ぶような形で鉄柱の上に展示してあった。こちらは渕上宗重氏が私財を投じ、昭和62年(1987)から平成20年(2008)まで運営した、旧大刀洗平和記念館である。
平成21年、記念館としての役目は筑前町立大刀洗平和記念館に引き継がれたが、旧館が戦時資料約2,100点を保存していたおかげで、資料の散逸や消失をまぬかれたのである。
先人たちを思う熱い血が現在の記念館に通っているのは、渕上氏の熱意と思想が受け継がれたからに違いない。私もその熱意に影響されたようで、東京に戻ってからも平和記念館で見たさまざまの資料が頭から離れなかった。
これまで南北朝時代や戦国時代、幕末を舞台とした小説を書いてきた。ちょうど遣唐使の物語にも取り組みはじめた矢先で、昭和まではとても手が回らない。
しかし佐藤氏のノートを見て、彼らが流体力学やベルヌイの定理を学んでいたことを知ったからには、放置することは出来ないと思うようになった。
「俺たちがいたことを、みんなに伝えてくれんや」
若くして逝った親友から、そう頼まれている気がするのである。しかも大刀洗飛行場には、久留米高専の先輩も学徒動員で行っていた。彼らの中には技術者の助手として震電開発にたずさわった方もいたのではないか。
開発のためには一万枚ちかくの図面が書かれ、工場に泊まり込みで作業に当たったというから、そうした図面の複写などを任された先輩がいたかもしれない。そうして働くうちに、彼は同年代の少年飛行兵と親しくなり、戦局の悪化に追われるように日本を守るための戦いに加わっていく。
片やB29に対抗できる震電の開発のために、片やB29を迎撃するために編成された回天制空隊のパイロットとして、若い命を燃やすことになる─―。
そんな二人を主人公とした物語が頭に浮かび、じっとしていられなくなった。タイトルは『不死鳥の翼』にしようと、原稿用紙に書きつけて字面を確かめてみたほどである。
更新:11月24日 00:05