15分ほどの映画を見て再び展示場に足を運び、ガラスのケースの中に置いてある小さなノートに気付いた。B6サイズのノートに、万年筆の几帳面な筆致で、飛行機の空気抵抗に関する図面が描かれている。
その中の「ベルヌイノ定理」という一行に目を引かれた。ベルヌイの定理とは流体(空気や水など)の速さと圧力と作用に関する運動方程式で、エネルギー保存の法則にもとづいたものだ。流体力学の基本と言うべき定理で、私も高専の授業で学習し、難しさに頭を悩ませたものである。
確かに飛行機を操縦するには流体力学の知識は不可欠で、ノートには次のような例題も記してあった。
〈時速1,000キロ、高度500メートルで飛ぶ飛行機の中から手を出した時、手に働く抵抗や如何。ただし手の面積は120平方cm、抗力係数は1.10とする。又これによる馬力の損失は如何〉
私はまるで飛行学校の授業に出席している気がして、めまぐるしく考えを巡らした。考えてはみたものの、技術者の道をはずれて歴史小説などを書いている者には手も足も出ない。
ただ、このノートを書いた操縦士に同級生のような親しみを覚え、どのような人だったのか知りたくなった。大刀洗平和記念館受付に行ってそのことをたずねると、私より少しばかり年上の寺原裕明氏(当時の副館長)が説明してくれた。
「これは大刀洗陸軍飛行学校の生徒だった佐藤亨さんが書かれたものです」
表紙には「飛行機正手簿」の表題がある。どうやら支給品だったようで、第二中隊第四区隊という所属と、昭和18年(1943)9月30日から書き起こした旨が記されている。
「佐藤さんは大正15年(昭和元年、1926)のお生まれですから、17歳だったはずです。あそこに展示してある九七式戦闘機も佐藤さんの愛機でした」
――博多湾に墜落されたのですか。
「そうではありません。佐藤さんが満州の飛行場におられた時、上官の渡辺小隊長が急な命令を受けて九州に向かうことになったそうです。ところが彼の飛行機は故障中だったので、佐藤さんの愛機を借りて行かれました。その途中にエンジントラブルが起こり、博多湾に不時着されたのです」
渡辺小隊長は飛行機から脱出して無事だったが、昭和20年(1945)4月22日に知覧基地から特攻出撃して散華されたという。海底に沈んだ九七戦は平成8年(1996)、51年ぶりに引き上げられ、修復がほどこされて平和記念館に展示されることになったのである。
――佐藤さんも亡くなられたのですか。
「平成19年(2007)まで生きておられました。知覧から特攻出撃なされたのですが、エンジントラブルのために屋久島に不時着されたそうです」
昭和13年(1938)から実戦配備された九七戦は、当時抜群の優秀さを誇り、赫々たる戦果を上げた。ところが昭和20年にはすでに老朽化し、故障も多かったのである。
「同僚から聞いた話ですが、佐藤さんが旧記念館に来られ、この飛行機の前で直立不動の姿勢で長いこと立っておられたそうです。さまざまな思いが去来したのでしょうね」
寺原氏が万感の思いを込めてつぶやいた。これほど展示内容が充実した記念館は珍しいが、それは戦争の現実を正しく伝えようという、筑前町の方々の熱意によって支えられていることを実感した一言だった。
更新:11月24日 00:05