2021年06月13日 公開
2021年06月15日 更新
もっとも、過酷な処分の裏で、天狗党を不憫に思う人々もいた。
刑執行の際、幕府から首切り役を命じられていた福井藩は、「捕虜を斬るのは、武士として許せない」として役目を辞退。
敦賀の永厳寺の住職は、天狗党に同行していた少年らを案じ、奉行所に申し出て、十数名を仏弟子として引き取った。
また、敦賀を領していた小浜藩も、天狗党には同情的だった。遠島処分となった党員の身柄を幕府から預けられると、後に彼らに准藩士の身分を与え、衣食住の面で支援した。美浜町にはその屋敷跡がある。
徳川幕府が崩壊すると、天狗党を顕彰する動きが出てくる。明治8年(1875)、武田耕雲斎らを埋葬した墓地の西側に、天狗党を祀る松原神社が創建される。
明治17年(1884)には、天狗党の乱勃発時、一橋慶喜に仕えていた渋沢栄一が訪れ、大正3年(1914)の墓地改修時には、寄付もしている。
栄一も藤田小四郎と面識があり、「まさしく義を見て為さざるは勇無きなり、との意気があった人」と語っている。幕末の動乱で立場を異にしたものの、その死に思うところがあったのだろう。
昭和に入っても、敦賀では天狗党が忘れ去られることはなかった。
戦後、天狗党が収監されていた鯡蔵が取り壊されることになった。しかし、地元住民から保存を望む声があがり、昭和29年(1954)、一棟が松原神社に移築された。現在は、水戸烈士記念館として保存され、松原神社では毎年、天狗党をしのぶ例大祭が執り行なわれているのである。
また、鯡蔵の別の一棟は水戸へ移築され、現在は回天神社の境内に見ることができる。
天狗党の結末はあまりにも悲劇的であり、彼らの志も、届けたい人には届かなかったのかもしれない。それでも救いがあるとするならば、彼らの志が、少なくとも越前の人びとには伝わっていたことではないか。
天狗党の最期から100年後の昭和40年(1965)、敦賀市と水戸市は姉妹都市となった。昨年はコロナ禍によって中止されたが、姉妹都市となって以降、毎年、少年少女の使節団を送り合っている。
幕末に結ばれた絆は今に引き継がれ、育まれているのである。
更新:11月25日 00:05