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ヤマト建国の鍵は「尾張」だった? 『日本書紀』が隠蔽した意外な真実

2021年06月02日 公開
2022年06月23日 更新

関裕二(歴史作家)

 

藤原不比等の陰謀が見え隠れする

ヤマト発祥の地・纒向遺跡が造られた位置も気になる。

纒向遺跡の南側を初瀬川が流れ、右岸には最古の市・海柘榴市(つばいち)が賑わっていた。三輪山山麓は、交通の要衝で、東西南北に道がつながり、水運を使う手もあった。

特記すべきは、縄文時代からすでに、東側との陸の道がこの一帯を起点につながっていたことなのだ。纒向は東国との交通の要衝であり、ここに都が置かれ、ヤマト建国が成し遂げられた理由は、「東側の勢力が真っ先にヤマトに乗り込んでいたから」と考えれば、すんなり理解できる。

物部氏は生駒山や葛城山の西側に拠点を構えたが、その理由も、「吉備からやってきて政権に参画したが、ヤマト黎明期の主導権争いの中で、いざとなったら故郷に逃げられる場所、故郷から援軍が駆けつけられる場所」を選んだからだろう。物部氏がやや西側に重心を傾けていたのは、「東の勢力が怖かった」からかもしれない。

ならばなぜ、「尾張」や「タニハ連合」の存在を、『日本書紀』は嫌ったのだろう。

『日本書紀』編纂時の権力者・藤原不比等が、尾張やタニハ連合を歴史に残したくなかったのだろう。ヤマト建国の歴史そのものをごっそり入れ替えない限り、藤原氏の正義は証明できなかったからだ。

多くの旧豪族が、没落していったが、彼らの輝かしい歴史を消し去らなければ、藤原氏の正統性を証明することは困難だった。

8世紀以降の藤原政権は、東国の軍団を恐れ続けたが、それは、タニハ連合や「東」がヤマト建国に大いにかかわり、しかも政権の行方を左右しかねない勢力に成長していたこと、蘇我氏や物部氏ら、旧豪族はタニハ連合や尾張、東国とつながっていたために、ヤマトの歴史を語るとき、邪魔になったにちがいない。

 

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