2021年03月10日 公開
2022年11月16日 更新
京都の足利将軍家は、15代将軍の義昭が織田信長に追放され、のちに豊臣秀吉のお伽衆として山城国(京都府)槇島(まきしま)1万石の大名となったが、その後、大名家としては残らなかった。
では、足利家が江戸時代、消えてしまったかといえば、決してそうではない。
喜連川(きつれがわ)足利家――。豊臣秀吉が小田原征伐後、足利家を残すために、下野国(栃木県)喜連川の地に作られ、徳川の世になっても生き残った家である。
江戸時代、石高は5千石にもかかわらず、大名の格式や特権を持っていた。
つまり、足利の血脈は江戸時代を通じて、喜連川の地、平成17年(2005)に氏家町と合併してできた「さくら市」に残っていたのである。
そこで、足利家ゆかりの史跡を中心に、さくら市の歴史を味わえるスポットを紹介しよう。
荒川河川敷と大蔵ヶ城址
喜連川の地は、塩谷(しおのや)氏によって治められていたが、豊臣秀吉により、喜連川足利家初代・国朝がこの地を与えられてから、喜連川家の統治が始まった。
2代・頼氏(国朝の弟)によって建てられた館は、残された平面図から、政庁の役割の「表」をはじめ、当主の生活域や居住域、庭に大別されていた。
明治9年(1876)に焼失してしまった館があったのは、現在のさくら市役所喜連川支所(旧喜連川町役場)の場所である。なお、門は平成3年(1991)に復活した。
喜連川足利氏館跡の裏手の山にあったのが、塩谷氏の城であった大蔵ヶ崎城。
深い堀切など、城の名残もあり、さくら市を代表する桜の名所・お丸山公園として現在親しまれている。
城の眼下に流れる荒川は別称を狐川とも言い、「喜連川」の語源とも考えられる。また川沿いに、怪しくも美しく光る炎の連なり「狐の嫁入り」が見られたことも、語源に関連しているとも伝わる。
お丸山公園(大蔵ヶ崎城址、さくら市喜連川5481-1)
更新:11月22日 00:05