建暦元年(1211)9月15日、12歳の頼暁は三代別当定暁のもとで落飾した。7日後の22日、定暁とともに上洛した頼暁は、源氏と関わりの深い園城寺で明王院僧正公胤から伝法灌頂を受けた。
承元3年(1209)、実朝の招きで鎌倉に下向し、仏事の導師や説法を務めた高僧公胤である。頼暁は師から「公」の字を賜り、法名を公暁と改めた。
舘隆志氏によれば、公暁は、しばらく愛宕郡粟田郷にある園城寺の子院、如意寺(現在は廃寺)にいた可能性があるという。
京都粟田口の青蓮院に関する記事を集めた記録『華頂要略』の「如意寺」の記事に「公暁禅師」が出てくるからである。また、『系図纂要』の公暁の項にも「如意寺禅師」との表記がある。
さらに、『華頂要略』は「当寺の寺務職を以て鎮守八幡宮別当と為す」と記している。恐らくは形ばかりのものだったのであろうが、公暁は如意寺の寺務職に就いていたものと考えられる。
二代将軍の遺児にして現将軍の甥、頼朝の後家政子が後援する期待の青年僧である。あり得ないことではない。
ただ、その間にも運命の歯車は着実に回っていた。建保4年(1216)閏6月20日、高齢の公胤が死去したのである。受戒の師を亡くした公暁であったが、如意寺または園城寺本寺で修行を続けることはできたはずである。
ところが、翌建保5年(1217)5月11日、今度は鎌倉で鶴岡の三代別当定暁が死去した。これにより、政子は18歳の公暁を四代別当に補任することを決め、建保5年6月20日、公暁は鎌倉に下着した。
『吾妻鏡』同日条は、「この一両年、明王院僧正公胤の門弟として、学道のため、住寺せらるるところ也」と記す。「この一両年」が公胤の死去後も含めるとすれば、公暁は建保4、5年頃、恐らくは形式的に如意寺の寺務職を兼ねながら、「学道」のため園城寺に住んでいたことになる。
とはいえ、建暦元年9月に上洛してから6年程であり、「学道」を十分に修めたとはいえない。定暁が死去したことで、当初の下向予定が早められたのであろう。あと3年、いや2年、定暁が生きていれば、公暁の運命も、そして歴史もまた違ったものになっていたかもしれない。
鎌倉に戻ってからの公暁の動向は判然としない。別当に補任された月日すらはっきりしないのである。8月15日・16日、鶴岡八幡宮にとって重要な恒例行事「放生会」があった。『吾妻鏡』には、実朝・政子・信子が列席し、流鏑馬を見物したという記事がみえるが、公暁の名はない。
諸史料に別当補任の記事がない中、『系図纂要』だけが「建保五年六ノ廿下東。十ノ五鶴岡別当」すなわち建保5年の6月20日に鎌倉下向、10月5日に鶴岡別当補任という記事を載せている。
一方、『吾妻鏡』は6日後の10月11日条に「阿闍梨公暁、鶴岡別当職に補すの後、始めて神拝あり」と記す。「神拝」とは文字通り神への拝礼であるが、ここでは別当に補任されたことを源氏の氏神に感謝し拝礼する儀式のことを指す。
この儀を経て正式に別当としての活動が開始できるのである。とすれば、『系図纂要』の10月5日補任という記事は説得力を持つといえよう。
6月20日、鎌倉に帰還した公暁は、恐らく政子・実朝・義時、鶴岡の供僧たちから鎌倉や鶴岡の事情、別当になるための心構えなど様々な教示を受け、準備を重ねたのであろう。
3ヵ月半の準備期間は不自然ではない。そして、建保5年10月5日、鶴岡八幡宮四代別当に補任されたと考えておきたい。
ところが、公暁は神拝を行うと、その日から一千日の参籠を始めたと『吾妻鏡』同日条は記す。「一千日」といえばほぼ3年である。大きな宿願と、それを達成しようとする固い決意がうかがえる。
ただ、正式に別当として活動できるその日からの参籠であり、周囲からは不評を買い、不審がられたことであろう。なぜ公暁は参籠を始めたのか。
比企の乱が起きた頃、4歳だった公暁は自分の生まれや立場について理解していなかったと思われる。しかし、成長するにつれ、自分が頼家の嫡子として生まれたことを知り、兄の一幡が殺された後に父の遺跡を継ぐべきは自分だと考えるようになったのではないか。
ところが、現実には北条氏によって実朝が将軍に擁立され、自分は幼くして僧侶になる道を強いられた。祖母政子の意向であるから仕方がない、といえばそれまでである。園城寺の高僧公胤の門弟という恵まれた環境も用意してもらった。一旦は父の遺跡を継ぐ道を諦めたかもしれない。
しかし、将軍実朝に子供が生まれず、後継将軍不在の異常事態が続いた。そこに定暁の死、鎌倉帰還、鶴岡のトップ就任、これらが若い公暁の前に転がり込んできたのである。二代将軍の子として父の遺跡を継ぎ将軍になる。人生をやり直す好機の到来である。だが、そのためには実朝に死んでもらわなくてはならない。幸い僧侶の自分には調伏という武器がある。これを使うに如くはない。公暁はこう考えたのではないか。
これには単なる憶測として退けることができない根拠がある。第一に公暁は実朝を殺害した実行犯である。第二に『吾妻鏡』や『愚管抄』は、殺害直後、公暁が乳母夫の三浦義村に使者を送り、「将軍の闕」ができたので、自分を将軍にするよう計らえと指示したとする。
第三に『吾妻鏡』建保6年(1218)12月5日条は、公暁が一切退出することなく「数ヶ祈請」を続け、「除髪の儀なし」という状態だったと記す。髪を剃らずに伸ばしていたのは、還俗する意思があったからと解釈できる。
以上のことから、一度は諦めた将軍への道を切り開くため、鶴岡のトップとして誰にも邪魔されずに実朝を調伏し、死に至らしめる。これが参籠を始めた理由であったと考える。
ところが、公暁の与り知らぬところで、後継将軍問題は急展開をみせていた。親王将軍推戴プロジェクトである。無論、大胆で畏れ多いプロジェクトだけに、建保6年の前半は極秘裏に進められたと思われる。
しかし、朝幕の合意が成立し、実朝の左大将拝賀・直衣始が盛大に挙行された6月・7月の頃になれば、人々も気づき始めたであろう。
参籠中の公暁も調伏相手の情報は集めていたに違いない。門弟には義村の子、駒若丸(後の光村)もいた。ひょっとすると駒若丸から情報を得たかもしれない。その時の驚愕、焦燥はいかばかりであったか。
親王が将軍に推戴され、実朝が後見するとなれば、将軍への道は完全に閉ざされる。調伏の成功を待っているわけにはいかなくなった。一刻も早く、しかも確実に実朝の命を奪うしかない。
それは実朝が自分のテリトリーに入ってきた時だ。これこそ公暁が鶴岡八幡宮の右大臣拝賀で実朝を殺害するに至った犯行動機だったと考える。
更新:11月23日 00:05