2020年10月13日 公開
2022年11月16日 更新
稲生原古戦場跡(名古屋市西区)
ところが、安寧は長く続かない。弘治2年(1556)4月、道三が、息子・義龍によって討たれたのだ。頼れる後ろ盾を失った信長・帰蝶夫妻は、深く悲しんだはずだ。
さらにその隙を突くかのように、同年8月、信長の弟・信勝(信行)が挙兵。それを迎え撃つべく信長も出陣し、両軍は稲生原で激突した。結果は、自ら槍を取るほどの信長の奮戦もあって、信長軍の勝利に終わった。父・道三の死に続く苦難を克服したことで、帰蝶も安堵したのではないだろうか。
稲生原古戦場跡は、地下鉄・庄内通駅から徒歩3分ほど。跡地には、この合戦の戦死者を弔ったものともいわれる庚申塚が残されており、当時の激闘が偲ばれる。
信長はこの後も、尾張国内の反対勢力と戦いつづけ、永禄2年(1559)にはようやく、尾張の大部分を掌握する。しかしそれも束の間のことで、さらなる大敵がやってくる。
永禄3年(1560)5月、駿河の今川義元が、2万5千ともいわれる大軍を擁して、尾張に進攻してきたのである。
時に、清洲城にいた信長の手勢は数千で、絶体絶命であった。しかし、今川軍の攻撃開始を知った信長は、「人間五十年……」と、『敦盛』を舞うと、五人の小姓とともに出陣し、熱田方面に向かったという。その姿を、帰蝶も側で見つめていたのだろうか。
道中、信長は日置神社に立ち寄って戦勝祈願をしたという。さすがの信長も、神仏に祈りたくなったのか。神社は、地下鉄・大須観音駅から徒歩8分ほどである。
そしてその後、熱田、善照寺砦などを経て中島砦に入った信長は、桶狭間山の今川義元本陣に向けて攻撃を開始。織田軍は見事に義元を討ち取り、奇跡的な勝利を得るのである。
その激闘の跡地は現在、桶狭間古戦場公園として整備されている。名古屋鉄道・有松駅から名古屋市バス、もしくは地下鉄・栄駅から名古屋市バスに乗り、幕山でおりて徒歩2分ほどである。
ともあれ、信長と帰蝶は、人生最大の危機を乗り越えた。時に信長27歳、帰蝶26歳。婚儀から十余年の時が過ぎていた。
以後、信長の主戦場は美濃となるが、信長と帰蝶は、尾張で多くの苦難を味わいつつ、そのたびに強くなっていったのである。
名古屋市内のゆかりの地を訪ねれば、そのことを実感するとともに、ありし日の二人の姿に想いを馳せることができるにちがいない。
桶狭間古戦場公園にある今川義元の墓(名古屋市緑区)
名古屋市地図
更新:11月22日 00:05