2020年09月03日 公開
2023年01月01日 更新
あまたいる戦国武将のなかから、各都道府県で一人ずつを選び、短編小説に――。
くじ引きの結果、第14回は、どこの県の誰なのか。
執筆者は、「羽州ぼろ鳶組」「くらまし屋稼業」シリーズが人気で、『童の神』が直木賞・山田風太郎賞にノミネート、『八本目の槍』も「週刊朝日」の歴史・時代小説ベスト10で第1位を獲得、『じんかん』が直木賞にノミネートされるなど、いま最も勢いのある若手歴史小説家・今村翔吾先生です。
この動画は、第14回のくじ引きを撮影したものです。
熊本県といえば肥後国、細川家を思い浮かべるかもしれませんが、細川家が熊本に入ったのは江戸時代初期、寛永9年(1632)のこと。
では、戦国期の肥後国はどうだったのでしょうか。
室町時代における肥後国守護は、平安時代以来の名門・菊池氏であったが、16世紀初めに没落、下剋上が進みました。
北にあたる肥前の龍造寺隆信が勢力を拡大させ、一時、肥後も勢力下に置かれましたが、天正12年(1584)、沖田畷の戦いで隆信が島津氏に敗れたことで、島津氏の支配下に入ります。
その2年後の天正14年(1586)から始まった、豊臣秀吉による九州征伐で島津氏が敗れると、肥後一国は佐々成政に与えられることに。
ところが、国人一揆が起こった責任を取らされて成政は切腹、代わって肥後に入ったのが、加藤清正と小西行長です。
北半分が加藤清正、南半分が小西行長の領国となりました。
文禄・慶長の役でもライバルとして、先陣を担った二人ですが、小西行長は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で敗れて刑死、肥後一国は加藤家が治めることになったのです。
その後、加藤家が改易され、代わりに肥後に転封されてきたのが細川家でした。
連載第14回は、豊臣政権下で、肥後半国を領する段階だった加藤清正が、大坂に滞在していたときのお話です。
9月4日(金)発売の「歴史街道」10月号に掲載です。お楽しみに!
更新:12月04日 00:05