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第60代・醍醐天皇の皇位継承と昌泰の変

2020年05月18日 公開
2020年11月09日 更新

吉重丈夫

昌泰の変

醍醐天皇が即位されて4年後の皇紀1561年=昌泰4年(901年)1月、左大臣藤原時平の

讒言により、天皇は右大臣・菅原道真を大宰権帥として大宰府へ左遷された。

「道真は醍醐天皇の異母弟で道真の娘婿である斉世親王を皇位に即けようとしている」と讒言され、大宰府へ左遷された。つまり、醍醐天皇を廃して斉世親王(醍醐天皇の一歳年少の異母弟)を皇位に即けようとしていると讒言したのである。

道真にそのような意図のないことが分かっておられた宇多法皇は、この知らせを受け急遽内裏に向かわれたが、宮門は固く閉ざされていて入れず、法皇は閉め出された状態となり、道真の処分はその中で、宇多法皇の意向を無視して決定されてしまった。醍醐天皇はまだ17歳であった。

皇紀1563年=延喜3年(903年)2月25日、菅原道真が赴任後2年して大宰府にて死去する。

皇紀1564年=延喜4年(904年)、保明親王(母は故・基経の娘の穏子)が2歳で立太子される。

道真が太宰府で死去して6年のち、延喜9年(909年)4月4日、時平が死去する。

延喜23年(923年)3月21日、皇太子・保明親王が21歳で即位されることなく、父・醍醐天皇に先んじて薨去された。

そこで保明親王の第一王子で、時平の外孫である慶頼王を皇太子に立てられるが、これがまた2年後にわずか5歳で薨去された。そこでさらに故・保明親王の同母弟の寛明親王(朱雀天皇)が立太子された。

こうして続いた不幸が菅原道真の怨霊によると恐れられ、醍醐天皇は改めて道真左遷の詔を破棄された上に、右大臣に復し贈位を行われ、その御魂を鎮められた。そしてこの年4月20日、「故菅原道真を旧職に復せしめ給ふの詔」を発せられた。

皇紀1590年=延長8年(930年)6月26日、内裏の清涼殿(天皇の日常生活の居所)に落雷があり、居合わせた公卿数人が焼死する。

「昌泰の変」から29年、道真が死去してから二十七年経っているが、彼らは道真左遷に関わった

者たちで、次々と悲惨な死を遂げていることから、道真の怨霊のなせるわざと恐れられた。

以降百年ほど、大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられ、「天神様」として信仰する天神

信仰が全国に広まり、道真ゆかりの地に天満宮が建立されている。

なお、菅原氏は天穂日命(あめのほひのみこと)の子孫で、大相撲の祖として知られる野見宿禰(のみすくね)を始祖とする土師氏の末裔である。この末裔の一流が大和国菅原邑に住んでいたことから、のちに菅原氏を名乗った。従って、天満宮では野見宿禰は主祭神として祀られている。

天皇ご自身も「昌泰の変」直後からご不例がちとなられ、この年延長8年(930年)9月22日、在位34年(33年2ヶ月余り)にして皇太子・寛明親王(朱雀天皇)に譲位される。そして7日後の29日に出家され、同日46歳で崩御された。

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