2020年03月12日 公開
2020年03月19日 更新
「令和」という新時代を迎え、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は光孝天皇をお届けします。
※各天皇の年齢等については数え年で計算して記しています。
※即位年、在位年数などについては、先帝から譲位を受けられた日(受禅日)を基準としています。
※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。
皇紀1544年=元慶8年(884年)、摂政・基経が公卿会議の決定をもって、陽成天皇に退位を願い、手続的には陽成天皇の譲位を受け、2月23日に「即位の宣命」を発せられ、55歳で即位される。異母兄・文徳天皇の孫・陽成天皇からの譲位という極めて異例の皇位継承となった。陽成天皇の曾祖父・仁明天皇の皇子である大叔父への譲位となり、世系38から世系36(孫から祖父の世代)への継承となった。
光孝天皇即位に伴って仲野親王の母王・班子が女御になられた(32歳)。
11月22日、大嘗祭を催行される。
時康親王(光孝天皇)は即位と同時に、清和天皇の第四皇子で先帝・陽成天皇の2歳年少の弟皇子であられた貞保親王(15歳)の立場を憚って、元慶8年4月13日、「皇子を臣籍に降下せしめ給ふの勅」を発せられ、ご自身の皇子は全て臣籍降下させ、ご自身の子孫には皇位を伝えないという意向を表明された。将来、貞保親王が即位される可能性があるからで、その妨げにならないよう留意された。陽成天皇には他にも皇子がたくさんおられ、それぞれ即位される可能性も残されていたからでもある。
天皇は「政は万機、基経に諮稟して後に奏上せよ」とされ、これが実質的な関白の始めとなった。
先帝・陽成天皇やその皇子たち、あるいは兄弟皇子たちのおられる中での朝政ということで、このような態勢にされたのであった。
皇紀1547年=仁和3年(887年)8月25日、「源定省を親王と為し給ふの詔」を渙発され、臣籍降下しておられた光孝天皇の王子の源定省が急遽還俗して親王に復され、翌日8月26日に立太子される。
陽成天皇の弟で清和天皇の第四皇子である貞保親王は基経の外孫であったが即位されなかった。貞保親王は18歳になっておられたので、外祖父の基経がその気になって主張すれば、貞保親王の即位も充分可能だったと思われる。基経は外祖父であり、実質的な関白の地位にあったので敢えてそうしなかったのであろう。
源定省を急遽還俗させたということはやはり皇位継承に関し、先帝・陽成天皇を退位させた基経の意向が大きく働き、皇位継承に決定的な役割を果たしている。
8月26日、在位4年(3年6ヶ月)、58歳で崩御された。後嗣を決めないで崩御されたが、陽成上皇との関係で、天皇ご自身が後嗣を決められる状況にはなかったのである。しかし陽成天皇が廃された後の混乱した時期に即位され、いわば中継ぎとしての役割をよく果たされた。
更新:11月22日 00:05