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明石全登、坂崎直盛、花房正成…関ケ原後も生き残った宇喜多家の家臣たち

2020年03月03日 公開
2022年11月16日 更新

『歴史街道』編集部

関ヶ原

関ケ原での敗戦により、当主・秀家は八丈島へ配流、宇喜多家は改易となった。関ケ原で共に戦った者、すでに他家へ出仕していた者など、かつて宇喜多家に仕えた者たちは、それぞれの道を歩んだ。乱世を生き残り、後の世までその名を残した、3人の家臣を紹介しよう。
 

明石全登(あかし ぜんとう)

生年は不詳。父・明石行雄(景親)は浦上宗景の家臣であったが、天正3年(1575)、宇喜多直家が天神山城を攻めて浦上家を滅ぼした際、寝返って宇喜多家の家臣に。子の全登も、直家の子・秀家に仕えた。

慶長4年(1599)、宇喜多家にお家騒動が勃発。4人の重臣、戸川達安・岡越前守・坂崎直盛・花房正成が出奔したため、残された全登は、家宰として秀家を支えた。

関ケ原合戦の折には、西軍として伏見城の戦い、杭瀬川の戦いに出陣して勝利。本戦では、8千の軍を率いて福島正則隊を相手に善戦した。

しかし、小早川秀秋の裏切りにより西軍は敗北。それを知った秀家が、小早川の陣に討ち入ろうとするのを全登が止め、大坂城へ退くように進言したと伝わる。

その後、キリシタンであった全登は、同じくキリシタンで、明石一族の母をもつ黒田孝高(如水)に匿われていたとの説がある。

慶長19年(1614)、大坂の陣の時には大坂城へ入城。これは、徳川幕府がキリスト教を禁じていたためとも、八丈島に流罪となっていた秀家を解放するためともいわれる。

豊臣方の敗戦が濃厚となると、戦場を離脱し、その後は、九州に落ち延びたという説のほか、スペインやポルトガルに逃れたという伝承もある。
 

坂崎直盛(さかざき なおもり)

永禄6年(1563)生まれ(諸説あり)。宇喜多直家の異母弟である忠家の長男。

秀家とは従兄弟にあたり、家臣として仕えていたが、お家騒動の折に対立。戸川達安らと共に宇喜多家を離れた。

その後、徳川家康の元において、関ケ原合戦では東軍として参戦。戦功により石見津和野3万石の領主になった。この時、家康が宇喜多の名を嫌ったため、「坂崎」に改名したといわれている。

大坂の陣では、家康の孫で、豊臣秀頼の正室として大坂城にいた千姫を、直盛が救出。家康は救出した者に千姫を与えるとしていたが、その約束は反故にされ、千姫は姫路新田藩主・本多忠刻に再嫁することに。憤った直盛は、千姫の強奪を決意し、この計画が幕府に露見して、直盛は殺害され、坂崎家は断絶したという。

後にこの事件は、山本有三の手によって『坂崎出羽守』として戯曲化された。
 

花房正成(はなぶさ まさなり)

弘治元年(1555)、宇喜多家の家臣・花房正幸の子として生まれる。幼少の頃より直家に仕え、天正6年(1578)、小西行長と共に羽柴秀吉の元へ赴き、織田と和議を結ぶための交渉役を務める。

秀家の名代として備中高松城の戦いに出陣。この戦いで水攻めを提案したのは正成であるともいわれており、この戦功により備中・高松に3万1千石の知行を得る。その後、秀家の家老として、四国征伐、九州征伐、文禄・慶長の役にも参加した。

お家騒動の折に宇喜多家を出奔。増田長盛に預けられ、高野山に閑居した。

関ケ原合戦後、宇喜多家が改易となると、正成も連座して浪人に。その後、家康に召し出されて5千石の知行を得て旗本となる。一方で、秀家の身を案じ続け、八丈島へ米を送るなどして助けた。

元和9年(1623)、宇喜多家への支援を継続することを遺言して死去したという。

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