2019年09月16日 公開
2023年01月12日 更新
これらの功により、光義は安土城矢窓切事の奉行を任じられた。弓や鉄砲の狭間を城壁に設け、これを管理する役目である。
名誉職ではあるが、しばし戦陣から外され、光義が信長に不満を抱いていた時に本能寺の変が勃発。安土で奉行を務めていた光義は、息子たちと美濃関へと帰国の途に就いた。
途中で一揆が蜂起したので、光義は弓で蹴散らして国許に戻ると、美濃も乱れ、織田家の家臣たちで所領を奪い合っていた。
光義は中立を保っていたが、次男の光政が斎藤利堯に与していたので、光義も利堯に味方して森長可と戦い、加治田・兼山合戦に勝利した。その後、丹羽長秀に属して賤ヶ岳の戦いに参じ、戦功によって八千石を得るようになった。長秀死去後は秀吉に仕えた。その後は豊臣秀次付となった。
戦国時代、地方から上洛した大名は、都の東山にある法観寺に定紋入りの旗を掲げることによって、誰が新しい支配者・天下人になったかを世人に知らせるのが慣わしとなった。秀次は都の主が代わったことを示すため、これを行い、さらに法観寺の八坂の塔の五重窓に、矢を放つよう家臣に命じた。
家臣たちが失敗を恐れて尻込みする中、84歳の光義は躊躇することなく名乗り出て、一町以上離れた五重の窓に10矢全てを射込んで喝采を浴びた。
慶長3年(1598)には秀吉から加増を受け、晴れて1万1万2百石の大名に列した。
同5年(1600)、日本が二つに割れた時、93歳の光義は嫡男の光安(光成)、四男の光朝と東軍に参じ、家康に同行して会津に進んだ。次男の光政と三男の光俊は、西軍に属して大坂に残った。
東軍が下野の小山で反転したのちは、福島正則らと行動を共にした。
天下分け目の関ケ原合戦に際し、光義の大島家は大垣城攻めを命じられ、本戦には参加できなかったとされている。それでも城の攻略に貢献したことで、戦後、1万8千石に加増された。鉄砲全盛の時代に、弓一本で大名に昇り詰めた武士は光義ただ一人であろう。
豊後の臼杵に5万石で移封を命じられた光義は、不馴れな地を治めるのは困難と丁重に断わったが、これが不興を買うことになり、大名としての家督相続が認められなくなった。仕方なしに光義は四人の息子に家禄を分け、旗本として四家の大島家を存続させることにして幕府から承諾された。
家康との関係は良好で、たびたび召し出されては戦話に花を咲かせ、江戸城や駿府城の鉄砲、矢狭間の設計、点検などを任された。
光義は生涯に53度戦に臨み、41通の感状を賜っている。
93歳まで戦場に立てた理由は、華美や美食を好まず、時代遅れと蔑まれても、生涯、弓の修行に励み続けたことである。
一芸あればどんな時代でも生き残ることができる。光義の信条である。弓大将の大島光義は97歳で生涯をまっとうした。
更新:11月22日 00:05