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東京裁判 市ヶ谷法廷のA級戦犯

2019年08月15日 公開
2022年01月21日 更新

平塚柾緒(戦史研究家)

法廷で繰り広げられた人間模様

東京裁判では1904年の日露戦争から1945年8月に至る日本の近代40年間の罪状が審判の対象とされた。検察側の立証は1946年6月13日から47年1月24日まで7カ月間続き、この間に登場した内外の証人は延べ1000人を超えた。その証言の衝撃度でナンバーワンクラスが田中隆吉少将であった。

1948年11月4日朝、市ヶ谷の軍事法廷は久しぶりに喧噪を見せていた。午前8時30分、被告たちを乗せたバスが巣鴨プリズンから半年ぶりに到着した。裁判中に松岡洋右、永野修身の両被告が死亡し、大川周明被告は精神病院に入り、賀屋興宣、白鳥敏夫、梅津美治郎の三被告は病気入院中のため、バスから降り立ったのは22人だった。

午前9時30分、11人の判事が着席し、ウェッブ裁判長が「これから本官は判決を宣告する」と宣言して、判決文の朗読を開始した。判決の朗読は土日を挟んで実質7日間もかかり、その最終日である11月12日に各被告に対して刑の宣告が行われた。結果は絞首刑7人、終身禁固刑16人、有期禁固刑2人であった。

東京裁判
《ウェッブ裁判長の判決朗読に聞き入る22人の被告たち。判決文は英文で30万語、1,211頁にも及ぶ厖大なものだったから、遅々として進まなかった。》
 

被告全員無罪を主張したパル判事

パル判事インド代表のラーダ・ビノード・パル判事は、被告全員無罪の意見書を書いた。

パルは、一国の政策決定にかかわった指導者を、共同謀議者として裁こうとするそもそもの考え方がとんでもないことで、非常識なことであるという前提からスタートしていた。そうしたパルの考え方の要素の一つに、侵略戦争に関しては明確な定義は確立されておらず、その国が自衛のために武力を発動すると宣言すれば、当時にあってはそれが自衛戦争だったのだという論理である。

そうした意味では、弁護団が一貫して主張した「満州事変以来の戦争は自衛戦争」という論理と一致する。しかし、パルの主張は、法廷で朗読されることはなかった。
 

遂に出された処刑命令

1948年11月12日の判決公判で、絞首刑とされたのは土肥原賢二、広田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、武藤章、東條英機の7人である。ここで弁護団は二つの動きを見せた。一つは連合国最高司令官マッカーサー元帥に対して、軍事裁判所条例に規定されている再審の申し立てをすること、もう一つは、一部の被告弁護人による米連邦最高裁判所に対する人身保護の申し立てである。

しかし、マッカーサーへの再審申し立ても、米連邦最高裁への申し立ても共に却下され、12月21日午前9時35分、マッカーサーはウォーカー米第八軍司令官に7死刑囚の死刑執行を命じた。

死刑執行は判決言い渡しから41日後の12月23日に、巣鴨プリズンの特設絞首台で執行された。

その夜、7遺体は米軍のトラックで横浜市営久保山火葬場に運ばれ、焼かれた。遺骨は砕かれ、米軍の飛行機で海上にばらまかれたといわれている。火葬場に残された細かな遺骨や遺灰は、米軍の指示で火葬場付属の共同骨捨て場に捨てさせられた。

ところが2日後の12月25日真夜中、共同骨捨て場の7戦犯の残骨は、3人の男たちによって密かに運び去られていた。男たちは東京裁判の弁護人だった三文字正平、久保山火葬場入り口に面する興禅寺住職の市川伊雄、火葬場長の飛田美善の三氏である。そして奪取した遺骨は、遺族の意思で連合国の日本占領が終わるまで隠され、のちに共同の墓が造られた際、埋葬された。

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