2019年08月15日 公開
2022年01月21日 更新
《極東国際軍事裁判所の法廷として法廷として使われた旧陸軍士官学校の大講堂は、写真の1号館2階にあった。現在、この1号館の大講堂を含む玄関部分のみが防衛省の敷地内に移築、保存されている。》
先の大戦に敗れた日本は、初めて「連合国」という名の外国の軍事力によって6年8カ月ものあいだ占領され、統治される経験を強いられた。
この占領期に関する記録や出版物は膨大な数に上っているが、写真を中心とした“目で見る占領史”は必ずしも多くはない。
当時、まだ時の状況を写真や映像に記録しておくだけの態勢が整っていなかったからでもあろう。
だが今日、「占領期」という時間が、いよいよ「歴史」となり、研究の対象として当たり前のものとなった。
今後、さまざまな新事実が究明されていくであろう、その時のために、現在の視野をビジュアルで示しておこうと刊行されたのが『写真でわかる事典 日本占領史』(平塚柾緒著、PHPエディターズグループ刊)である。
※本稿は、同書の一部を抜粋、編集したものです。
平塚柾緒(ひらつか まさお)
1937年、茨城県生まれ。出版社勤務後、独立して取材・執筆グループ「太平洋戦争研究会」を主宰し、数多くの元軍人らに取材を続けてきた。著書に『東京裁判の全貌』『二・二六事件』(以上、河出文庫)、『図説 東京裁判』(河出書房新社)、『見捨てられた戦場』(歴史新書)、『写真で見る「トラ・トラ・トラ」 男たちの真珠湾攻撃』『太平洋戦争裏面史 日米諜報戦』『八月十五日の真実』(以上、ビジネス社)、『玉砕の島々』(洋泉社)、『写真で見るペリリューの戦い』(山川出版社)、『玉砕の島 ペリリュー』(PHPエディターズ・グループ)など多数。原案協力として『ペリリュー ─楽園のゲルニカ─』(武田一義著・白泉社)がある。
1946年5月3日から1948年11月12日の刑の宣告まで、約2年半にわたって行われた東京裁判。
正式名称は「極東国際軍事裁判」という。本法廷が設置されたのは東京・新宿区の市ヶ谷台にあった旧陸軍士官学校で、現在の防衛省はその跡地に建てられたものである。
連合国が1931年(昭和6年)の満州事変から太平洋戦争に至る15年戦争の、日本の政治・軍事指導者らの戦争責任を裁くという世界史上初めてのこの裁判は、ドイツのニュルンベルク裁判とともに「世紀の裁判」といわれた。
この「世紀の裁判」の特徴は、いわゆる通常の戦争犯罪に加えて、侵略戦争の計画・準備・開始・遂行そのものも犯罪とする「平和に対する罪」と、一般市民の虐殺や暴行など非人道的行為を犯罪とする「人道に対する罪」が、戦争犯罪の概念として新たに規定されたことである。
さらにもう一つの特徴は、国際法の平等・厳格な適用という観点に立つなら、一般市民の虐殺行為ということで「人道に対する罪」に問われてもいい東京大空襲をはじめ、日本の各都市への無差別爆撃、さらには広島・長崎への原爆投下などの連合国の犯罪は、この国際軍事裁判ではいっさい審理の対象にされなかったことである。そして天皇の戦争責任を免責するなど、終始アメリカの占領政策の推移の中で進められた「勝者が敗者を裁く」懲罪裁判の要素を強く残していることも特徴として挙げられよう。
第二次世界大戦が終わったあと、現在に至るまで世界に戦争が絶えたことはない。東京裁判を構成した戦勝11カ国で、これら「戦後の戦争」に関わりを持っていない国はほんの数カ国である。そして戦後の戦争で、東京裁判が高らかに謳いあげた「平和に対する罪」や「人道に対する罪」を自らに科した国は1カ国もないし、その罪が正式に国際裁判で問われたこともない。戦後の国際情勢は、はからずも東京裁判が「勝者の裁き」であったことを立証した形になってしまった。そして「平和に対する罪」も「人道に対する罪」も、東京裁判の被告たちを裁くだけの法律だった、と反駁されても勝者側は反証する史実を持っていない。
東京裁判で死刑を宣告されたA級戦犯7人が、巣鴨プリズンの特設絞首台で刑を執行されたのは今から71年前の1948年12月23日だった。
更新:11月22日 00:05