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永田鉄山、石原莞爾、武藤章…陸軍の戦略構想から見える「対米戦」への分岐点

2019年04月23日 公開
2021年08月11日 更新

川田稔(名古屋大学名誉教授・ 日本福祉大学名誉教授)

石原莞爾
石原莞爾
 

動き出したドイツを見た日本は...

満洲事変後、陸軍は一気に中国に進出していったかのように見えるが、それは違う。昭和8年(1933)に塘沽停戦協定が結ばれ、日中関係はひとまず落ち着きを見せる。

ところが昭和10年(1935)8月、陸軍は「華北分離工作」に着手する。これは永田の構想に基づくもので、華北五省に国民政府から独立した親日的地方政権をつくり、資源獲得のため日本の影響下に置こうとしたのだ。

この工作は、ドイツの動きに影響されたものであろう。工作が始まる直前の同年3月、ドイツが再軍備宣言をし、ヴェルサイユ条約を破棄。ヴェルサイユ体制は崩壊し、ヨーロッパで緊張が高まっていたのである。

陸軍は一方で、塘沽協定後、国際的配慮から中国での動きに慎重だったが、国民政府の排日姿勢から、資源確保が困難と判断する。

そして、近い将来の大戦の可能性を踏まえ、国家総力戦に対応するための資源確保として、華北分離工作に動いていったのである。

ところが同年8月、永田が刺殺され、石原莞爾の発言力が大きくなる。すると昭和12年(1937)1月、石原は華北分離工作の中止を決定する。

その最大の要因は、ソ連にあった。当時、極東ソ連軍の増強により、極東におけるソ連と日本の軍事バランスは著しく崩れていた。

石原は、ソ連が旧勢力圏だった北部満洲の回収に出ることを危惧した。このまま華北分離工作を進めれば、中国だけでなく、それに肩入れする米英との関係も悪化してしまう。ソ連と衝突した際、米英からの資源供給が必要であった。

だからこそ石原は、工作を中止したのである。そして、5年程度は政治的にも軍事的にも安定を保ち、ソ満国境における戦備を整えなければならないと考えた。

この工作中止に先立つ昭和11年11月、日独防共協定が結ばれている。これは実は、石原が主導したものであり、その本質はドイツにより背後からソ連を牽制させることにあった。つまり、対米英を意識した日独伊三国同盟とは、狙いがまったく異なる。

そもそも石原は、ドイツと組んで世界大戦を戦おうとしたわけではない。彼は、その「世界最終戦論」で、次の欧州大戦の後に、日米による世界最終戦争が起こると想定していた。そのため、ヨーロッパでの次期大戦には介入せず、アジアの指導権を握り、最終戦争に備えるべきと考えていたのである。

しかし石原の構想は、昭和12年7月の盧溝橋事件によって崩れていく。
 

三国同盟と日ソ中立条約の狙い

事件当時、参謀本部作戦部長の要職にあった石原は、事態不拡大を主張する。

中国国民の統一に対する志向性は強いと見て、戦線が拡大すれば長期持久戦となり、ソ満国境に対する備えもできなくなると恐れたのだ。

ところがこれに反し、事態拡大を唱える者がいた。統制派の武藤章と田中新一である。

武藤と田中は、中国は国家統一が不可能な状態にあり、強い一撃を加えれば、国民政府を屈服させられると考えた。

さらにこれを機に、華北分離政策を実現し、華北の資源と市場を確保したうえで、ソ満国境に備えるべきだとした。

彼らは陸軍士官学校の同期で、永田の構想に影響を受けていた。事態拡大の主張の裏には、華北分離工作を中止した石原に対する反発があったと見ていいだろう。

ただし、武藤と田中も中国側の抵抗について目算がなかったわけでなく、当時の生産体制で、ある程度中国との継戦は可能だと見ていた。また当時、ソ連軍内で粛清があったり、米英の目線がドイツにむかっていたことから、好機と判断したのである。

武藤は統制派の影響力を背景に、石原を陸軍中央から排除する。しかし事態を拡大したものの、国民政府はなかなか屈服せず、日中戦争は泥沼化していくのである。

さらにそうこうしているうちに、昭和14年(1939)9月、ドイツによって第二次世界大戦が引き起こされる。

陸軍省軍務局長に就任した武藤は、いずれどこかの国、つまり勝者となるであろう国と組まなければならないと考えていたが、「まずは不介入」という姿勢を見せる。不介入の間、国家総力戦の体制を整えようとしたのだ。

武藤ら陸軍が資源計算したところ、日本は独自で4年間の長期戦を戦えるだけの資源を確保しなければならず、決定的に不足するのは、石油、ボーキサイト、そしてゴムであった。ボーキサイトは飛行機の機体に、ゴムは戦車に必要であった。

ただいずれも、中国では足りず、石油はインドネシア、ボーキサイトはインドネシアとマレー半島、ゴムはマレーとインドシナ半島に存在した。

となると、これらの地域を日本の影響下に置かなければ、4年間の長期戦は戦えない。

折しも、ヨーロッパでは、ドイツがフランスとオランダを占領していた。

これによって、仏領だったインドシナ半島(仏印)はドイツの影響下に、オランダ領のインドネシアは、オランダ政府のイギリス亡命により、その影響下に入る。

さらにドイツは、イギリスとの戦いを優位に進めており、仮に勝利すれば、東南アジアの植民地すべてが、ドイツの影響下に置かれる。

ここにおいて、武藤ら陸軍は、日独伊三国同盟を結び、ドイツに東南アジアの資源取得を認めさせるかわりに、対英参戦を考える。ただし、そうなると米英の関係から、アメリカとも戦争になる可能性がある。

もっとも陸軍も、国力が12倍もあるアメリカとは戦いたくない。そこで、ソ連と日ソ中立条約を結び、日独伊ソの4国で、ユーラシアを制し、それによって、アメリカの介入を防ごうと企図する。

かくして昭和15年(1940)9月には日独伊三国同盟が、翌16年(1941)4月には日ソ中立条約が結ばれる。

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