2018年12月03日 公開
2023年03月31日 更新
昭和15年(1940)の日本の北部仏印進駐などによって、日米関係は冷え込み、それを打開しようという民間の動きが出てくる。昭和15年11月、アメリカのウォルシュ司祭とドラウト神父が来日し、産業組合中央金庫理事・井川忠雄と接触する。
井川は、ドラウトの日米首脳会談案を近衛文麿首相らに取り次ぎ、交渉を進めるため、翌16年(1941)2月下旬に「外務省委託」の資格で渡米。ウォルシュ、ドラウトと交渉の方策を検討し、そこに陸軍の岩畔豪雄が加わり、協議が行なわれる。
こうしてできた「井川・ドラウト案」をもとに修正案が作成され、4月16日、野村吉三郎駐米大使、ハル国務長官の会談において、交渉の起点としての「日米諒解案」が合意される。
その中には、ハル四原則(1:全ての国家の領土保全と主権尊重、2:他国に対する内政不干渉、3:通商を含めた機会均等、4:平和的手段以外の太平洋の現状不変更)という前提条件があったが、野村がこれを本国に伝えなかったため、日本政府は「日米諒解案」を歓迎する。
しかし、日ソ中立条約をもって、アメリカと交渉しようとしていた松岡洋右外相は、自身が関与していなかったために怒り、議論は紛糾する。
それでも5月、日本はなんとか修正案を作成。もっとも、日本側にとって有利に改変した内容だったため、交渉成立を危惧した野村大使が日本案のすべてを米側に伝えないなど、交渉は混乱する。
そうした中、6月に独ソ戦が始まり、アメリカは強硬路線に転換。さらに7月、日本が南部仏印に進駐したことで、アメリカは対日全面禁輸の措置を取る。
日米間における緊張の高まりを受け、近衛文麿首相は、日米巨頭会談によって状況を打開しようとする。しかしこれも頓挫し、10月16日に内閣を投げ出す。
そのあとを受けて成立した東條英機内閣は、外交交渉を優先としたうえで、不調の場合は開戦すると決め、より譲歩の幅を広げた甲案と乙案をアメリカに提示する。
一方、交渉が決裂した場合に備え、海軍の機動部隊は11月26日に、択捉島の単冠湾から真珠湾に向けて出港する手はずを取る(交渉成立の場合は、引き返すこととなっていた)。
対するアメリカは暫定協定案の作成に入り、ハル国務長官も対日妥協を模索する。ところが11月26日、理由は不明ながら、ハル国務長官は暫定協定案の提示をやめ、より強硬な「ハル・ノート」を野村大使に手交する。
それは、中国及び全仏印からの日本軍の全面撤兵、蔣介石政権以外の中国政府の否認、日独伊三国同盟の事実上の撤廃を求めるもので、日本にとっては受け入れがたいものであった。それを知ったクレーギー駐日英大使も、戦争になるのは当然だと語ったという。
「中国」に満洲を含むか否か確かめるべきだったという議論もあるが、日本は満洲を含むものと理解し、アメリカ側の姿勢に打ちのめされた。かくして、日本はハル・ノートを最後通牒と受け取り、開戦に踏み切るのである。
参考文献
筒井清忠編『昭和史講義』
国立公文書館アジア歴史資料センター「インターネット特別展 公文書にみる日米交渉」
更新:11月21日 00:05