2017年12月07日 公開
2018年12月05日 更新
現在のハワイ・真珠湾
昭和16年(1941)12月8日、日本海軍がハワイ・真珠湾のアメリカ軍基地を奇襲攻撃しました。
アメリカ太平洋艦隊の主力が、僅か数時間で壊滅した事実もさることながら、その攻撃が、複数の空母(航空母艦)から発艦した航空機によって、整然と行なわれるという前代未聞の戦法に世界の軍関係者は瞠目し、戦慄したのです。その立役者こそが、日本海軍が生んだ空母機動部隊でした。
日本海軍といえば、その象徴として、戦艦大和や零戦(零式艦上戦闘機)を想起する人は多いでしょう。しかしもう一つ、世界に誇るべき存在がありました。 それが開戦当時、世界最強を謳われた第一航空艦隊、すなわち空母機動部隊です。
とはいえ、昭和の初めまで、日本は航空分野で欧米に大きく後れをとっていました。にもかかわらず、日本海軍が補助艦艇としか認識されていなかった空母に着目し、航空機を対艦攻撃に用いる発想ができたのは、なぜか? 実は、そのヒントを示した人物がいました。日露戦争時の連合艦隊首席参謀として知られる秋山真之です。
第一次世界大戦直後、秋山は「今後、陸上機を発着艦させられる母艦が必要」と述べ、フロートのついた水上機ではなく、陸上機を洋上で空母から自在に発着艦させて、対艦攻撃に用いる可能性を示唆していたのです。折しもワシントン軍縮会議において、日本は主力艦(戦艦・巡洋戦艦)の保有比率を対米英6割に制限されました。主力艦の劣勢をどう補うべきか。日本海軍は苦悩しつつも、その一つの解決策として、航空機の戦力化に挑戦します。そして血のにじむような努力と試行錯誤の結果、世界最高峰の航空機の開発と、技量抜群の搭乗員を育成することに成功しました。それらが、空母を基幹とする史上初の斬新な艦隊を誕生させることになるのです。
昭和16年12月8日午前3時19分(現地時間7日午前7時49分)、南雲忠一率いる空母機動部隊による真珠湾奇襲攻撃は成功します。残念ながら外務省の不手際により、この攻撃は「騙し討ち」と謗られることになりますが、6隻の空母による史上初の大がかりな航空攻撃は真珠湾の戦艦部隊をほぼ壊滅させることに成功。この戦果に世界は震撼しました。
惜しむらくは、ここで第2次攻撃を仕掛けて、基地の重油タンクや工廠施設を破壊しておけば、真珠湾の基地機能は失われ、当分の間、米海軍の行動力を著しく低減させることができたかもしれません。しかし、敵空母不在の情報が南雲に、反撃される危険のあるハワイ近海から早々に脱出することを選ばせます。
連合艦隊司令部でも、「再度の攻撃を催促すべき」との意見が出されたといいます。しかし、司令長官の山本五十六は「南雲はやらんだろう」ともらし、再度の攻撃命令を発することはなかったそうです。
更新:11月21日 00:05