「海軍反省会」の話し合いの中でいちばん白熱したのは、特攻の問題でした。これは何回も討議がされています。
たとえば、「いつどこで誰が決裁し、認可したのか」。海軍は役所だから、現場で勝手にはできません。どこかで誰かが「OK」と言っているわけです。
この特攻作戦の計画の始まりや、人間魚雷回天での作戦の担当者であった参謀など、また戦友を特攻で失った会員が、激しく議論を戦わせる場面が何度もありました。もっとも、この問題はさすがに結論を見ませんでしたが。
また、『文藝春秋』(平成2年12月号)に「昭和天皇独白録」が載った後の会合では、同時代人ならではの議論が展開されました。
たとえば、独白録では「海軍大臣の吉田善吾が自殺未遂をした」と語られていますが、福地誠夫氏は、吉田善吾の副官だった立場から自殺未遂を否定し、独白録の内容をすべて信じていいものか疑問を呈されています。
それに絡めて他のメンバーは、昭和天皇の情報源は陸軍であり、海軍に関しては正確な情報がいっていない可能性を指摘しました。
また、独白録のもととなった、天皇へのヒアリングを仕切った外交官の寺崎英成についても、疑惑の目が向けられました。
寺崎は『マリコ』(柳田邦男著)の中で、愛国者として書かれています。しかし反省会のメンバーは不信感を持っていて、そういうふうには見ていませんでした。
寺崎のことを「あの場(ヒアリング)に混じれるような格の人間ではない」と指摘した千早正隆氏は、どうも寺崎を、GHQの回し者とにらんでいたようです。ちなみに、天皇へのヒアリングは即座に英訳され、アメリカに渡されていました。
つまり、反省会のメンバーは、「昭和天皇独白録」の成立の経緯や内容について、すべて信じていいものか疑問を持っており、これは同時代人の彼らしか持ちえない視点でしょう。
余談ですが、千早正隆氏はとても細かく研究する方で、黒島亀人が、連合艦隊参謀長宇垣纒の書き残した日記『戦藻録』の原本の一部をなくした経緯について、過失ではない、と延々と追及しました。
千早氏は関係者に聞き取りをしたり、紛失時の状況を調べた結果、黒島が故意になくした、つまり、自分に不都合な記録を残さないためにしたのだとして、そこに書かれてあったであろうことまで推理しています。
黒島に関しては、土肥氏から私も「軍令部の資料を、『これとこれを貸せ』と持っていって返さず、後で、『なくした』といわれた」と聞かされました。
この証言録からは、そうした人間模様も見えてきますし、普通の本には出てこない、面白い証言がいくつも出てくるのです。
「海軍反省会」は平成3年(1991)4月の開催を最後として、自然消滅的に解散しました。
メンバーたちには、「どこかで必ず公開したい」という気持ちがありました。「海上自衛隊には参考にしてほしい」という発言には、そうした気持ちが滲み出ているし、実際、何度も「本にしよう」と話し合っています。
ただ彼らは、商業出版で相手にされると思っていませんでした。だから、「それぞれが、いくらずつ出したら本にできるのだろう」と相談していたのですが、結局、出版には至りませんでした。
それが計11巻の書籍となったきっかけは、 海軍反省会の手伝いをしていた私が、反省会前半期の幹事だった土肥一夫氏から、保存していた分の録音テープを預けられたことです。
そういうテープを持っていると、NHKのプロデューサーに話したところ、「ぜひ聴きたい」といわれ、すべて貸したところ、しばらくしてから「これで番組をつくりましょう」と話が進みました。
私が預かったのは、土肥氏が幹事だった時期の分だけなので、後半期に幹事役を務めた平塚清一氏に連絡を取ったりして、欠けている録音テープを探しました。
結局、131回の会合のうちで、10数回分が見つかりませんでしたが、平成21年(2009)8月9日から3日連続で放送された『NHKスペシャル 日本海軍400時間の証言』に結実します。
その折、「こんな内容です」と紹介する本があったほうがいいだろうと、10回分の会合を1冊にまとめました。
その反響の大きさと、読者の強い要望によって、手元にある百十数回分をすべて書籍化することになり、このたび全11巻が完結するに至ったわけです。
なお、本書では極力「話し手の口調」をそのまま書き取って収録しています。
昔から談話筆記は言葉が整理されて、口語が半分文語になっているものが少なくありません。「いや、俺、参っちゃってさ」と話していても、「いや、参りました」と書いたりする。
しかし、それでは普通の文章情報と変わりません。オーラル・ヒストリーの値打ちは、当人の感情やメンタリティ、個性が読み取れるところにもあるのです。
「こういう感情を持った海軍の人たちが残した資料なのか」と、生の声だからこそ、見えてくるものがあるはずなのです。(談)
更新:11月23日 00:05