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三春と土佐の絆が実現させたもう一つの無血開城~戊辰戦争秘話

2020年03月02日 公開
2023年10月04日 更新

長尾剛(作家)

板垣退助
板垣退助(国立国会図書館蔵)
 

三春を救った土佐藩士たち  

断金隊が占拠する棚倉に赴いた河野は、板垣退助との面会を申し出ると、三春藩の窮状と尊皇の志を訴え、三春藩の新政府軍加盟を申し出た。

河野の話を黙って聞いていた板垣は、おもむろに口を開いた。

「貴殿の申し出は、会津や仙台に対する造反ではないのか」

だが河野は、微塵も臆さなかった。きっぱりと言い切った。

「錦旗に背くことこそ造反の極み。尊皇こそが、我ら日本武士の本懐にござる」

これを横で聞いていた一人の土佐藩士が、豪快に笑い声をあげると、河野に喝采を送った。

「その意気や、よし! 板垣殿、この者の言葉、信じて良いと思うぞ!」

この男こそ、断金隊の隊長にして、土佐にあって勇猛で知られる美正(みしょう)貫一郎である。

「よろしかろう。美正殿がそこまで言うのなら」

板垣も納得した。かくして三春藩は東北にあって、実質、新政府軍の一員となった。これ以降、美正は断金隊と三春藩のパイプ役となって、三春のため尽力してくれることとなる。

棚倉の陣所において、河野ら三春藩士は、会津藩攻略作戦のため、地形や会津藩の軍備組織など、さまざまな具申をした。そして新政府軍の案内役を買って出た。

もはや新政府軍と会津藩の衝突は避けられない。ならば、一日も早く、わずかでも犠牲を少なく、この戦を終わらせるしかない──と。

同年7月、奥羽越列藩同盟の一つ・磐城平藩を打ち破って進軍してきた新政府軍別働隊と、棚倉に滞在していた断金隊は合流を果たした。

「次なる敵は、三春藩ぞ!」

板垣は、声高に叫んだ。三春がすでに新政府側と通じていることを、東北諸藩に悟られぬよう配慮し、直前まで三春攻撃の姿勢を崩さなかったのである。

三春藩の領地に到達した新政府軍を、三春藩の重臣たちは丁重に迎え入れた。

「お役目、ご苦労にございまする」
「三春は、ようご決心くだされた」

両者は、大きくうなずきあった。

かくして小藩・三春藩は、土佐藩の協力を得て、領土と領民、そして主家たる秋田家の名誉を守り切った。

戊辰戦争の奇跡、三春の無血開城である。

「仙台や会津は、我が三春を恨みもしよう。だが、この日の本の武門の者として、我らに恥じるところはない」

領民たちの平穏な暮らしと笑顔を眺め、河野は強く自分に言い聞かせた。

この後、三春藩は恩人である美正貫一郎に、強く三春での滞留を勧めた。が、美正は会津藩攻撃の先頭に立ち、華々しく戦死。三春の人々は、心よりの弔意を送った。

一方の板垣退助も、会津藩攻撃へと向かった。板垣率いる土佐藩兵は、規律正しく、他の新政府軍と比べ、恨みを買うことが少なかったという。そして会津藩の降伏後、板垣は会津藩の立場を慮り、その名誉回復に努めた。

戊辰戦争で板垣と接してきた河野は、板垣を尊敬するようになり、明治維新後、その教えを受け、彼とともに「自由民権運動」の旗手となる。

薩摩・長州の藩閥政府に物申し、庶民と政治を近づけたこの運動は、大きく民主化の波を引き寄せた。「西の板垣退助、東の河野広中」と称えられた由縁である。

三春と土佐の絆は、自由民権運動を語るうえでも欠かすことができないといえよう。

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