2018年10月23日 公開
2018年10月23日 更新
スキピオは攻勢に転じます。どこにといって、ハンニバルがいないイベリアです。留守居の兵力を叩いて、カルタゴ軍の地盤を奪い取るんですね。それからシチリア総督に転じて、敢行したのがアフリカ上陸作戦、つまりはカルタゴ本国を攻めるという作戦でした。
これに慌てて、カルタゴ政府はハンニバルを南イタリアから帰国させます。ハンニバルのカルタゴ軍、スキピオのローマ軍で行なわれたのが、前202年、ザマの戦いでした。勝利したのがローマ軍で、用いたのが包囲殲滅作戦─要するにスキピオはハンニバルを真似たんですね。
あるいは勉強した、研究したといいますか。
イベリア半島の戦いでも何度となく練習していて、ハンニバルが天才肌なら、スキピオは秀才肌、真面目な努力家なんですね。ハンニバル自身が後に「戦争で一番はアレクサンドロス大王、二番は自分だ。ザマで負けていなければ、自分がアレクサンドロスを抜いて一番だ」と述懐したとされますが、いいえて妙です。ハンニバルの自負は傷ついていない。それでも負けたことは悔しいんですね。
スキピオのほうは臍を嚙んだに違いありません。閃きのハンニバルほど、鮮やかなことはできない。戦いの運びも固いというか、ぎこちない。そのかわりに考え抜かれている。スキピオの戦いは危なげがない。この手合いなんですね、最後に勝つのは。
国と国の戦いにしてもそうで、勝ち残るのは才長けたカルタゴ人じゃなくて、鈍臭いローマ人です。実直、堅実、質実剛健と褒め言葉もありますが、いずれにせよ、ローマの二連勝です。ザマの戦いの後に講和が結ばれて、前201年に第二次ポエニ戦争も終わります。
もうローマの天下ですね。アレクサンドロスの跡目が決定的になってきました。というのは、もうひとつ、東方ですね。ローマはギリシア世界、ヘレニズム世界を制する手がかりも、この第二次ポエニ戦争で手にしているんです。
前215年、カンナエの戦いの後、ハンニバルが南イタリアにいたときですが、一緒にローマを倒そうと、シチリアのシュラクサイ王ヒエロニムス、さらにアンティゴノス朝のマケドニア王フィリッポス五世に同盟を持ちかけるんですね。
こちらとの戦いも、ローマは敢然と受けて立ちます。前211年にはシュラクサイ王国を滅ぼしました。マケドニアとは、アテネやスパルタなどのポリス勢、さらにギリシア南西部のアイトリア同盟と結んで戦いました。前205年まで続いた、第一次マケドニア戦争ですね。
いったん矛を収めて、第二次ポエニ戦争の決着をつけ、前200年に再開したのが、第二次マケドニア戦争でした。前197年のキノスケファレの戦いでローマ軍に大敗、マケドニアはギリシアの覇権を失います。諸ポリスやペロポネソス半島北部のアカイア同盟は自由になりますが、それがよかったかどうか。
ローマは前192年から、今度はセレウコス朝のシリアと戦います。アイトリア同盟と一緒にギリシア北部に侵攻の素ぶりありと、ペルガモンやロドスに訴えられて、出兵を決めたのですが、ここで、またスキピオです。
アフリカで勝ったというので、「スキピオ・アフリカヌス(アフリカのスキピオ)」という尊称をもらいますが、その兄のルキウスのほうは「スキピオ・アシアティクス(アジアのスキピオ)」と呼ばれています。こちらは、このときの前190年、マグネシアの戦いでシリア軍を撃破、小アジアを手に入れるからです。
事実上の指揮官は弟アフリカヌスなんてすが、ローマは独裁を嫌いますから、同じ人間がなんでもやるなんて許さない。そこで兄貴を表に立てたわけですが、さておきスキピオもアレクサンドロス大王と同じように、ヨーロッパ、それからアフリカ、アジアと押さえたことになりますね。
前171年から、ローマは第三次マケドニア戦争を始めます。前168年のピュドナの戦いで、今度はスキピオの義理の弟アエミリウス・パウルスがローマ軍を率いて、また大勝を収めます。
アンティゴノス朝は滅亡に追いこまれ、マケドニアはローマの属州になります。地中海世界の覇者たるだけでなく、ローマは世界征服の後継者たる名乗りも上げた格好です。
※本稿は、『学校では教えてくれない世界史の授業』より一部を抜粋編集したものです。
更新:11月24日 00:05