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ローマ vs. カルタゴ ポエニ戦争はアレクサンドロスの跡目争いだった

2018年10月23日 公開
2018年10月23日 更新

佐藤賢一(作家)

ポエニ戦争は「歴史の画期」となった

ポエニ戦争は第一次から第三次までありまして、始めから終わりまで180年かかっています。前264年から前146年までですね。

第一次戦争はシチリア、つまり島の支配を賭けて争うわけですから、不可避的に海戦になっていきます。

カルタゴ人はフェニキア人で、もともと海洋民族ですので、軍事でいえば典型的な海軍国です。海戦では圧倒的有利と思われていました。対するローマは、地続きにイタリアを制したことから知れるように、これまた典型的な陸軍国です。海戦では不利と思われていたんですが、ここで秘密兵器を使います。船に棒付の鈎を装備するんですね。それを敵の船の舷側にひっかけて、動けないよう、離れられないようにしてから、ローマ兵が乗りこんでいったと。

乗りこまれたカルタゴ兵、海兵たちは堪りません。甲板上でも斬った張ったで、そのとき海戦は陸戦に変わっていたんです。もうローマの独壇場ですね。この新戦法でカルタゴ艦隊に連戦連勝、ローマが見事勝利を収めるというのが、第一次ポエニ戦争の展開でした。

前241年、ローマはシチリアを支配下に入れます。特筆しておきたいのは、ここに属州というものを作ったことです。

ラテン語で「プロウィンキア」といいます。フランス語のプロヴァンス、今もプロヴァンス地方がありますが、その語源で、地方とか州とか訳されます。ローマ史では属州と訳されるのが普通ですが、ローマは総督を派遣して直轄支配を行うというような地方単位を、このとき初めて持ったんです。

前238年、コルシカ島とサルデーニャ島も支配下に入れ、後に属州にしました。元はカルタゴの領土ですが、それが敗戦国になって、戦後に傭兵に給金を払えずに、反乱を起こされてしまい、この混乱に乗じて、ローマは出兵を行うんですね。

どさくさ紛れに征服して、コルシカ、サルデーニャを自らの属州に変えて、このときの遺恨がカルタゴに第二次戦争を始めさせたともいわれますが、さておき第一次戦争後に一気に三属州ができました。

たかが島三つといえば島三つですが、ローマは大きな一歩を踏み出したと思います。というのは、それまでのローマというのは、どこまでいっても都市国家なんですね。

イタリアを制したといっても、半島にある都市国家、ギリシア人の植民市を含め、自治が行われている都市国家ですね、カプアとか、タレントゥムとか、レギウムとか、そうした都市国家と同盟を結ぶことで、ローマ連合といいますか、ゆるやかにローマの支配に組み入れていっただけです。ローマが直接支配していたわけではないんですね。

初の直接支配がシチリア、コルシカ、サルデーニャです。シチリアではシュラクサイはじめ、自治植民市は残りますが、その他の部分は属州に変えました。北のアペニン山麓では、今のリミニとか、ピアチェンツァですね、ああいう都市を人工的に作りながら、ガリア人の土地に入植も始めていましたから、少し後には属州ガリアなんていうものも作られます。

ローマが征服戦争で大きくなるたび、どんどん増やされていって、この属州システムが後のローマの屋台骨になります。ポエニ戦争というのは、この属州が作り出されたという点でも、歴史の画期だったと思います。

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