2018年06月05日 公開
2023年03月31日 更新
信長のように、裏切りで最期を迎えることになった戦国大名は少なくない。
例えば、武田家では、天正10年(1582)に、家臣の裏切りが続出した。
木曾義昌が信長に寝返り、穴山梅雪が徳川家康に内通し、信長の甲州征伐が始まると、小山田信茂も裏切った。
当主・勝頼は進退窮まり、同年3月に一族とともに自害。ここに武田家は終焉を迎える。
大内家は、天文20年(1551)に、当主・義隆が家臣の陶晴賢(すえはるかた)に討たれたことで、事実上、滅亡した。
一方で、生き馬の目を抜くような時代に、誠実さを貫き、忠義を尽くした武将たちもいた。
信長から無理難題を言われ続けた家康も、決して裏切らなかったことで「律義者」と評された。それゆに天下人となれたといっても過言ではない。
立花宗茂も、弱体化する大友家を裏切らず、島津家の大軍を敵に回して、立花山城を守り抜いた。
その後、豊臣家に仕えることになると、関ケ原の戦いでも、度重なる東軍の誘いに乗ることなく、西軍について戦った。
そのため、戦後は一時、浪人となったが、その武勇と忠義心が徳川家からも評価されて、再び大名へと返り咲くことになる。
家康が今川家の人質だった頃から仕えていた鳥居元忠は、関ケ原合戦の時、少人数の軍勢で伏見城に籠もり、西軍を足止めする役割を引き受けた。そして、命を散らせた。
その功により、徳川幕府の下、鳥居家は不祥事があっても改易を免れ、廃藩置県に至るまで、大名家として続くことになる。
たしかに戦国時代は、誠実に生きていくには難しい時代である。ただ、そんな中でも、決して裏切ることがないという評価が、自分の身や家を救うこともあったのだ。
更新:11月23日 00:05