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戦国の「裏切り者」と「忠義者」

2018年06月05日 公開
2023年03月31日 更新

『歴史街道』編集部

織田信長

戦国時代には、数々の裏切りが繰り広げられた。ここでは、織田信長を裏切った武将を中心に、その例を紹介するとともに、難局にあっても主君への忠義を貫いた武将たちも紹介しよう。
 

信長は裏切られてばかりだった!?

織田信長は、天下統一を目前にして、裏切りによって斃れた。

しかし、信長が裏切られるのは、本能寺の変が初めてではない。それより前に、危ない橋を何度も渡っている。

天文20年(1551)、信長は織田家の家督を継いだ。しかし、信長が幼少の頃から側についていた筆頭家老・林秀貞の目には、その言動が当主としてふさわしくないものに映った。

そこで秀貞は、信長の同母弟・信勝(信行)を当主に据えることを考える。

信勝付きの部将・柴田勝家らを仲間に引き入れ、弘治2年(1556)、秀貞は兵を挙げた。信長にとっては、最も身近な人物に裏切られたことになる。

これを稲生(いのう)で迎え撃った信長は大勝。しかし、秀貞も、信勝も、勝家も、赦すのである。母・土田御前のとりなしもあったとされるが、寛容な措置だといえよう。

ところが、その後、信長は勝家から、信勝に叛意ありと知らされる。

信長は、清須城に信勝を呼び出し、殺害。これによって、織田家の家督争いは終結を迎えた。

元亀元年(1570)、今度は同盟相手の浅井長政に裏切られる。

信長は、妹の市を長政に嫁がせ、関係を築いていた。そして、京から出陣して、近江を通り、越前の朝倉義景を攻めた。

すると、近江で長政が反旗を翻し、信長は義景と長政によって挟撃される形となる。

窮地に陥った信長だが、木下(羽柴/豊臣)秀吉や明智光秀の活躍で、無事に京へ戻った。世にいう「金ヶ崎の退き口」である。

その後、天正元年(1573)に、信長は浅井家を滅ぼした。

さらには、家臣でありながら、信長を二度も裏切った人物もいる。松永久秀だ。

一度目は、元亀3年(1572)。足利義昭に付いて叛旗を翻したのだが、翌年、義昭は槇島城に籠って敗れ、京から追放されてしまう。久秀と同じく義昭についた三好義継も、信長の部将・佐久間信盛に攻められて自害。それを見た久秀は、多聞山城を明け渡して、信長に降伏した。

そんな久秀を、信長は殺すことなく、信盛の与力にする。

二度目は、天正5年(1577)。信盛の軍から抜け出して、信貴山(しぎさん)城に立て籠もった。

これに対して信長は、嫡男・信忠を総大将とする大軍を差し向けた。

久秀は、嫡男・久通とともに自害。その際、平蜘蛛茶釜を渡すように求められたが、拒否して破壊したという逸話がよく知られている。

信長を裏切った家臣としては、荒木村重も有名だ。天正6年(1578)7月に、羽柴秀吉の軍から離脱して、有岡城に籠もった。

信長は自身で有岡城を攻めたが、戦いは一年近くも続く。

そして村重は、落城が近くなったと判断すると、有岡城を脱出し、今後は尼崎城に入って、ここでも半年余り籠城。尼崎城も逐われると、さらに花隈城に入って、天正8年(1580)7月まで戦った。

その後は、毛利家の下へと逃れている。

才覚ある者を下に置けばよく働いてくれるが、一方で、裏切りを警戒しなければならないというジレンマもある。

もし、有能な家臣たちに次々と裏切られていなければ、信長の天下統一事業は、もっと早く進んでいたのかもしれない。

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