2018年05月05日 公開
2019年04月24日 更新
天保6年5月5日(1835年5月31日)、土方歳三が生まれました。新選組の鬼の副長と呼ばれ、箱館戦争でも活躍したことで知られます。
武蔵国多摩郡石田村の豪農の家に生まれた歳三は、武士になることに憧れる少年でした。多摩地方は幕府の天領であり、八王子千人同心との縁も深く、幕府への忠誠心が強い土地柄です。しかも武張った気風があり、自衛のために農民の多くは剣術の心得がありました。歳三も一度は江戸市中の商家に奉公に出ますが、24歳頃に実家に戻り、家伝の石田散薬を行商する一方、剣術に打ち込みます。
多摩で盛況な流派が天然理心流で、歳三も同流を学び、やがて一歳上の近藤勇と出会いました。近藤も元は上石原の農家の出で、腕を見込まれて宗家・近藤周助の養子となり、江戸牛込柳町の試衛館道場の道場主を務めていました。
安政6年(1859)、25歳で正式に入門した歳三は、翌年に発行された関東の剣士を紹介する『武術英名録』に名を連ねており、すでにかなりの技量であったことが窺えます。
文久3年(1863)、近藤と歳三は、沖田総司、井上源三郎、山南敬助ら試衛館門人と、道場の食客である永倉新八、原田左之助、藤堂平助らとともに幕府の将軍上洛警護の浪士隊募集に応じて上洛、新選組を結成して都の治安維持にあたることになりました。局長には近藤、副長には歳三と山南(のちに山南は総長、歳三が単独の副長となる)があたり、特に歳三は近藤を補佐するとともに、隊をまとめる要役に徹します。
新選組は幕府を敬い、京の治安を守る同志の集まりであり、先祖代々藩に仕えている藩士のようなまとまりはありません。そこで必要になったのが、強い結束を保つ武士の集団であるための、規律でした。有名な局中法度は、『新選組始末記』を執筆した子母沢寛の創作ともいわれますが、勝手な脱走や、卑怯な振る舞いをする者は切腹、斬首に処されたのは事実です。そして、それを命じたのが歳三であったため、「鬼の副長」と呼ばれることになりました。いわば一番の嫌われ役を歳三が演じたのです。
その甲斐あって新選組は、池田屋事件、禁門の変、三条制札事件、油小路の戦いなど、時代の逆風の中で結束を失うことなく戦い続け、その中心には常に歳三の姿がありました。しかし大政奉還で幕府は瓦解し、新選組は鳥羽・伏見の戦いで奮戦したものの敗れ、さらに再挙を期した甲州勝沼でも敗れて、下総流山で態勢を整えていたところを、新政府軍に囲まれます。
この時、近藤は自ら敵の本営に出頭することで歳三以下、新選組の面々を脱出させ、自分は板橋刑場で斬首されました。「長年の仇敵とはいえ、降軍の将を切腹もさせず、罪人として斬首するとは誠を知る武士のすることではない。新選組局長に泥を塗った敵に、死んでも屈するわけにはいかない」。おそらく歳三はそうした思いだったでしょう。
北関東、会津と転戦し、さらには旧幕府海軍と合流して蝦夷地に渡ります。そして蝦夷共和国が樹立すると陸軍奉行並に就任。新選組を含む旧幕府軍諸隊の総督として松前城を落とし、宮古湾海戦では新政府軍の軍艦奪取に挑み、また二股口の戦いでは押し寄せる敵を撃退し続けました。
蝦夷に渡ってからの歳三は洋式兵法をマスターする非凡な才を見せ、負け知らずの常勝将軍でした。しかし衆寡敵せず、箱館まで新政府軍が攻め寄せ、五稜郭陥落が目前となった時、新選組らが拠る孤立した弁天台場を救うべく歳三は出撃し、銃弾を受けて戦死しました。享年35。共和国幹部で戦死したのは歳三のみです。
更新:11月23日 00:05