宇都宮城
慶応4年4月23日(1868年5月15日)、戊辰戦争の宇都宮城の戦い(第2次)があり、宇都宮城が新政府軍に奪還されました。土方歳三が負傷した戦いとしても知られます。今回は土方の動きを中心に紹介してみましょう。
下総流山で別れた近藤勇の助命のために、新選組隊士数人と江戸に戻っていた土方でしたが、助命は絶望的であることを知ります。折しも4月11日に江戸城は新政府軍に無血開城されました。そこで土方は同日、島田魁ら6人の隊士とともに、下総市川宿の鴻之台に集結する2000の旧幕府軍に合流します。その顔ぶれは大鳥圭介、吉沢勇四郎らの旧幕臣、秋月登之助、垣沢勇記らの会津藩士、立見鑑三郎、松浦秀人らの桑名藩士などでした。
翌12日に大林院で行なわれた評議の席で、土方は「機智勇略兼ね備」えた人物として参謀に選出され、先鋒軍参謀として宇都宮に向けて出陣することになります。先鋒軍1000余名は、会津藩士・秋月登之助を隊長とする伝習第一大隊を主軸としました。もちろん島田らの新選組もこの中に含まれていますが、土方はこの時点で、新選組を含む旧幕府軍の参謀となったわけで、新選組副長から立場は大きく変わったといえます。
12日のうちに出立した先鋒軍は、小金宿、水海道を経て、16日に宗道(現在の茨城県千代川村)に宿陣。ここで下妻藩に10余名の兵、下館藩に兵糧を提供させました。さらに島田率いる一隊が、絹川で結城藩兵を破ります。 18日には先鋒軍は東蓼沼の満福寺に宿陣し、会津藩に宇都宮城攻略の援軍を要請しました。一方、宇都宮城の探索も行ない、すでに敵が入って戦支度を整えていることを確認します。
そして19日。先鋒軍は梁瀬橋を渡り、宇都宮城に攻め込みました。土方らは搦め手に兵を配して猛攻をかけ、敵は恐れをなして天守に火をつけて退去、城は僅か1日で落城します。この日の戦闘で、土方は逃走しようとした味方の兵士を斬りました。
「土方歳三ハ歩兵ノ退クヲ見テ、進メ進メト令シツツ逃ル者一人ヲ斬倒ス」(『桑名藩戦記』)。
土方は血刀を提げて睨みを利かせ、及び腰であった味方は奮起し、城を1日で攻略する一因となります。
宇都宮城を攻略した先鋒軍でしたが、撤退する宇都宮藩兵が城を焼いたため、先鋒軍は再び満福寺に宿陣するはめとなりました。翌20日、先鋒軍は城内を巡見し、焼け残った建物を本陣と定めます。この日、大鳥圭介らも城に入りました。
22日、降雨の中、旧幕府軍は壬生城攻略に向かいます。宇都宮城を落とした土方らの先鋒軍は同行せず、城下で休養していました。ところが味方は安塚の戦いで敗れ、宇都宮城に戻ってきてしまいます。
翌23日の夜明け、壬生方面より新政府軍が大挙押し寄せ、六道の辻より宇都宮城に攻めかかりました。この時、土方は宇都宮城の北にある明神山の二荒山神社で、桑名藩兵らと大砲を指揮していましたが、援軍要請を受け、桑名藩一番隊とともに城内に入ります。そして竹林のある宇都宮城南門付近で激闘を続けるうちに、土方は小銃弾で足の指を負傷。歩行がままならなくなり、同じく負傷した会津藩士・秋月登之助とともに城外に搬出され、今市仮本陣に送られました。
この日、宇都宮城はあえなく新政府軍に奪還され、旧幕府軍は今市方面に敗走。以後、旧幕府軍は会津藩兵と協力して、日光口で戦闘を続けることになります。
ところで今市に到着した土方は、新選組隊士の中島登を日光に向かわせ、日光の警備についていた八王子千人同心の土方勇太郎を呼び寄せます。6歳年下の勇太郎は同じ土方姓ですが親戚ではなく、同郷で天然理心流同門の親しい友人でした。 土方は勇太郎に打ち明けます。「思い出しても憐憫の至りだ。あの(宇都宮城攻撃)激戦になった時、従兵の一人が堪え切れなくなって逃げ出そうとしたのを見つけたから、これを手討ちにした。 退却する者は誰でもこうだ。進め進めと号令突貫、ついに城を落としたが、あの一兵卒は実に不憫である。どうかこれでこの日光へ、墓石の一つも建ててくれ」と眼に涙をためながら金一包を渡しました。京都では「鬼の副長」と呼ばれた土方ですが、人間味のある素顔を垣間見ることができます。
また勇太郎には「もう今度はとても帰れそうにない」と言い残し、土方は会津へ向かいました。一説に宇都宮城と白河城を旧幕府軍・奥羽列藩側が死守できていれば、会津戦争の様相は大きく異なったともいわれます。その点では痛恨の敗北ですが、土方が負傷していたために、会津ではほとんど指揮を執ることができなかったのも、戦局に影響したかもしれません。
土方は新選組の指揮を、会津に先発していた山口次郎こと斎藤一に託すことになります。
更新:12月12日 00:05