2018年02月10日 公開
2019年07月02日 更新
大正2年(1913)7月10日、林董(はやし・ただす)が没しました。日英同盟締結に尽力した外交官です。
林董は嘉永3年2月29日(1850年4月11日)の生まれ。董の父は、下総国佐倉藩の蘭方医・佐藤泰然。病院兼蘭医学塾の「佐倉順天堂」を開き、幕末に開腹手術を成功させるなど当時最高水準の医療を修めて、現在の順天堂大学の基礎を作った人物です。
そんな泰然の5男に生まれた董は、幕府御典医・林洞海の養子となりました。ちなみに将軍の侍医を務め、後に初代陸軍軍医総監となる松本良順は、董の実の兄にあたります。
医者の一族の中で育った董は慶応2年(1866)、17歳の若さで幕府の留学生に選出され、イギリスに渡りました。翌年、大政奉還で幕府が瓦解したため、董も帰国を余儀なくされますが、イギリス人の紳士的な国民性に触れたことは、董に大きく影響することになります。
帰国後、榎本武揚率いる旧幕府海軍に身を投じた董は「林董三郎(とうざぶろう)」と名乗って蝦夷地に渡り、箱館五稜郭を拠点に蝦夷地制圧に従軍。彼らが目指していたのは、単に明治新政府に対抗する政権の樹立ではなく、北方のロシアに備えることにありました。当時、ロシアは千島に侵攻を繰り返しており、その無法ぶりに董は信用するに足るはロシアではなく、イギリスであるという思いを強くしたといわれます。
箱館戦争が榎本軍の降伏で終結すると、董は英語力を買われて新政府より出仕の誘いがかかりますが、「仲間がまだ拘留されているのに、自分だけ出仕はできない」と拒みました。硬骨漢ぶりは兄の良順に通じるものがありますが、それがかえって信頼され、釈放後、新政府に出仕して外交官への道を歩むことになります。
やがて駐英公使となった董は日露戦争前夜、外務大臣・小村寿太郎から全権を委任されて、日英同盟の交渉を詰めていきます。もっとも日本政府はロシアとの戦争を想定して日英同盟を結ぼうとしたのではなく、イギリスがロシア南下の抑止力となることを期待していました。国力の差を思えば、簡単に戦争できるような相手ではないことは承知していたのです。
明治35年(1902)1月30日、董の努力が実り、日英同盟が調印されました。日本を世界が一流近代国家と認めた瞬間でした。なお日露戦争後、駐英公使館は大使館に昇格し、董は日本の外交官初の大使となっています。そして、第一次西園寺内閣で外相として入閣、第ニ次西園寺内閣では逓信相となり、一時外相も兼任しました。
大正2年(1913年)7月10日に没。享年63。
更新:11月22日 00:05