2018年04月10日 公開
2022年06月20日 更新
平成24年(2012)4月10日、宮崎勇が没しました。日本海軍の戦闘機搭乗員で、松山の343航空隊剣の戦闘301飛行隊「新選組」のメンバーの1人としても知られるエースパイロットです。
宮崎勇は大正8年(1919)広島県呉市に生まれました。父親は呉海軍工廠勤務です。昭和11年(1936)に香川県立丸亀中学を3年で中退し、佐世保海兵団に入りました。海防艦磐手、水上機母艦千歳、軽巡洋艦長良、砲艦熱海乗り組みを経て、昭和15年(1940)11月、第二期丙種飛行予科練習生となります。翌年に飛練を卒業すると、戦闘機搭乗員として横須賀航空隊に配属されました。
宮崎は樫村寛一一飛曹の列機となり、約1年間、鍛えられます。樫村一飛曹といえば日中戦争において、九六艦上戦闘機で戦闘中、敵機とぶつかって左の翼が半分失われますが、それでも無事に基地に帰還した名パイロットとして、広く知られていた人物でした。樫村は宮崎にとって丸亀中学の先輩でもあり、厳しくも親しく指導を受けています。
昭和17年(1942)4月18日、米軍機が本土に襲来の知らせを受けて、樫村や宮崎も出撃しますが、敵は艦載機だと思いこんでいたため、ドーリットル隊の爆撃機を陸軍機と誤認して見逃してしまいました。
昭和17年10月、宮崎は252航空隊に異動となり、ラバウルに向かうことになります。 横須賀航空隊を離れるまで、樫村は宮崎に口が酸っぱくなるほど「攻撃や行動に移る前に、必ず後方を確認しろ」と言い続けました。宮崎は後年、「樫村さんのあの教えのおかげで、自分は生き残ることができた」と感謝とともに語っています。
252空は11月にラバウルに進出し、11月12日のガダルカナルの敵輸送船団攻撃が、23歳の宮崎の初陣となりました。愛機はもちろん零式艦上戦闘機です。252空の飛行隊長は菅波政治大尉。菅波は真珠湾攻撃時、空母蒼龍の戦闘機隊隊長を務めていた人物です。初陣の時、宮崎は菅波隊長が直接指揮する小隊の3番機でした。この日、宮崎は味方の陸攻(陸上攻撃機)を襲おうとした敵戦闘機グラマンF4Fワイルドキャットを撃墜。初撃墜でした。しかしラバウルに戻ると、菅波隊長から「あんなに敵機を深追いするとは、何事だ」と叱られています。
ガダルカナルをめぐる戦いは連日のように続き、熾烈を極めました。 宮崎の2度目の出撃にあたる11月14日、敵機の姿もなくなり帰還しようという時、菅波隊長は戦果確認のため、自分だけ後から戻ると合図し、宮崎が同行を願うと「早く帰還せよ」と合図しました。それが宮崎と隊長との最後の別れとなり、菅波は二度と戻りませんでした。
252空はその後、ニューブリテン島ラバウルを拠点に、約960km離れたガダルカナル方面だけでなく、ニューギニア方面の作戦にも投入され、バラレやラエにも進出しました。 宮崎も3度、戦いの末に不時着しており、その場所はワニが群れる川の中であったり、海上の「鮫の巣」を8時間漂流したりと、冒険小説さながらです。
昭和18年(1943)2月、252空は内南洋に転進、マロエラップ基地などで米陸軍機の邀撃に明け暮れますが戦いに利なく、翌昭和19年(1944)1月の米機動部隊による空襲を機に、252空は内地に戻りました。その後、硫黄島に進出、10月にはフィリピンのマバラカットに進出します。
10月24日、252空は全員が特攻配置となりますが、数日後、宮崎はなぜか同じ252空の撃墜王・岩本徹三、斉藤三朗とともに内地に飛行機を受領しに行くことになり、内地に戻りました。これが宮崎と252空の別れとなり、12月、松山の343空(剣部隊)の戦闘301新選組に異動します。
343空はよく知られる通り、源田実大佐の発案で結成された精鋭部隊で、最新鋭戦闘機・紫電改を優先配備し、空中での会話が可能な通信機を備え、さらにパイロットの多くは各航空隊のエース級を引き抜いた、制空権奪回のための文字通り「切り札」でした。特に戦闘301新選組に配属となった宮崎は「俺は名前が勇だから、近藤勇だな」と言って満悦であったとか。隊長は向こうっ気の強い猛将菅野直大尉。菅野は宮崎を気に入り、「ミヤさん、ミヤさん」と呼んではよく一緒に遊んだといいます。
ある夜、宮崎と菅野は無断外出して温泉に入っていると、そこで源田実司令と鉢合わせしてしまいます。無断外出を咎められるかとさすがに二人は身を固くしますが、源田は「温泉はいいのう。気をつけて帰れよ」と言うだけでした。二人は「さすがはオヤジ」と感嘆したといいます。
宮崎は昭和20年(1945)3月19日の343空の初陣でも出撃し、その後、航空神経症に悩まされながらも、終戦まで戦い続けました。それまでの撃墜数は13機を数えたといわれます。 昭和53年(1978)、愛媛県城辺町(現、愛南町)の湾の底に沈んでいた紫電改が発見されると、翌年の引き上げに尽力しました。その機は昭和20年7月24日の豊後水道上空の激戦で未帰還となった6人のうちの1人の愛機です。
これを機に、宮崎は若い人たちのためにと、戦争当時の思い出を綴り、『還って来た紫電改』という単行本にまとめました。平成24年4月10日、没。享年92。
更新:12月10日 00:05