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史上最強の戦闘機隊「343空」を生んだ、源田実の“合理的発想”

2012年10月23日 公開
2023年02月22日 更新

戸高一成(呉市海事歴史科学館〔大和ミュージアム〕館長)

戸高一成

「源田サーカス」の異名をとったスター・パイロットで、真珠湾攻撃を航空参謀として成功させた源田実。ミッドウエーの失敗などで毀誉褒貶はあるものの、彼の合理的発想と海軍省を動かす豪腕がなければ、343空は決して生まれなかった。史上最強の戦闘機隊に源田が託したものは何か。

※『歴史街道』2012年11月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

 343空を生み出した源田実という男

「俺は搭乗員だから、第一搭乗配置にしろ」。そう言って海軍省人事局に怒鳴り込んだのが、源田実大佐でした。

昭和20年(1945)初頭、源田が軍令部作戦課から第343航空隊司令に転じた時のことです。当時、航空隊司令といえばまず自ら操縦桿を握ることはなく、従って慣習的に扱いは現場の搭乗員(第一搭乗配置)と異なる、第二搭乗配置が通例でした。

ところが源田は、あくまで自分は第一線の現役パイロットだと主張したのです。「指揮官が飛ばなくては、戦闘機搭乗員はついてこない。いざという時には自ら空中で指揮を執る」。

そうした源田の姿勢は搭乗員たちに歓迎され、かつて「源田サーカス」と謳われたスタープレイヤーの司令は、部下たちから人気がありました。「パイロットにとって尊敬に値するのは、操縦のうまい人間だけである…。その機微を、源田はよく知っていたのです。

太平洋戦争末期、頽勢挽回を期して編成された最強部隊、第343航空隊「剣〈つるぎ〉 」。その創設と活躍には、生みの親というべき源田実という人物の個性と思想が色濃く投影されています。ここでは源田を軸に、343空の戦略と役割について、紹介してみましょう。

源田実はある意味、海軍航空の分野を常にリードした人物でした。昭和9年(1934)、横須賀航空隊の分隊長時代に海軍戦闘機隊を育成し、民間から寄贈された九〇式艦上戦闘機でアクロバット飛行を披露して、「源田サーカス」の異名で人気者になっています。

また同時期に横須賀航空隊の副長だった大西瀧治郎の薫陶に接し、航空主兵論の影響を受けました。昭和14年(1939)には駐英国大使館付武官補佐官としてロンドンに赴任、翌年8月からのバトル・オブ・ブリテン(イギリス本土防空戦)をその目で観ています。

そして昭和16年(1941)4月に第一航空艦隊の航空参謀になると、同年12月の真珠湾攻撃を成功に導きました。同艦隊が「源田艦隊」と揶揄されるほど、源田の影響力が大きかったことはよく知られています。

その後、昭和17年(1942)6月のミッドウェー海戦の敗北を経て、同年の10月の南太平洋海戦では空母 瑞鶴 〈ずいかく〉 の飛行長を務め、一応の勝利を収めると、第11航空艦隊参謀を最後に、同年末には軍令部員となって第一線から退きました。

源田の経歴は一見華やかなものですが、実は多くの失敗も含まれています。最大の失敗はミッドウェーですが、そのミッドウェーの教訓として彼が導き出したのが、「見敵必戦」。

つまりミッドウェーでは、攻撃機に戦闘機の護衛を付けるため待機していたところを敵に衝かれたわけだから、今後は護衛なしでも攻撃機を敵に向かわせるというものでした。これを実践した南太平洋海戦では、ミッドウェーの2倍もの搭乗員を失ってしまいます。

海戦で勝利しても、より深刻な損失といわざるを得ません。このように源田は時に失敗の割り切り方に問題があり、暴走することも珍しくありませんが、一方で常に時代の先端を意識し、合理的な発想で成功もしています。343空の生みの親は、そうした人物でした。

 

「先制」と「集中」を実現させた航空隊

軍令部員となった源田には、アメリカ軍の圧倒的な物量の前には、通常の戦い方では到底勝てないという現実がすでに見えていました。今後の航空軍備及び作戦をどう展開するか、それについて源田は2つの可能性を探っています。

1つは体当たり攻撃。実際に特攻が行なわれる1年前の昭和18年(1943)暮れ頃に、源田は日本がそれほど切羽詰った状態に追い込まれていることを認識していました。

もう1つが、一極優勢論です。戦力的に勝る敵に全体では押されていても、絶対に負けない部隊を1つ持つことで、敵にプレッシャーを与える。具体的には強力な戦闘機隊ですが、その精強部隊を機動運用することで、制空権を部分的に回復する。

もちろんそれだけでは戦争に勝てませんが、有力な部隊を敵に見せつけることで決戦までの時間を稼ぎ、アメリカの戦意が失われるまで局地的優勢を保つ、というものでした。

特攻と一極優勢論、この2つを源田は同時並行で準備し、昭和20年初頭に軍令部のデスクワークから離れて自ら乗り出すのが、後者の精強部隊の実現、すなわち343空の創設だったのです。

「戦争に負けているのは海軍が主役をしている海上戦に負けているからである。海上戦に負けるのは航空戦で圧倒されているからである。航空戦が有利に展開しない原因は、わが戦闘機が制空権を獲得出来ないからだ。つまり、戦闘機が負けるから戦争に負けるのだ」

源田は戦後、著書『海軍航空隊始末記』の中で語っていますが、その発想から彼は史上最強の戦闘機隊の編成を目指しました。まず各航空隊から、生き残りのベテランパイロットを一本釣りで集めます。

もちろん各隊からすれば迷惑な話ですが、例によって人事局に乗り込んで押し通しました。この時、歴戦のパイロットはもちろんですが、飛行長として志賀淑雄少佐を獲得できたことは、343空の運営に大きな意味を持つことになります。

次に、零戦を凌ぐ最新鋭の戦闘機を揃えました。それが紫電改です。紫電改の性能については別稿に譲りますが、局地戦闘機とはいえ要撃専門の雷電とは異なり、零戦並みの操縦性を持ち、格闘戦に向いた防空戦闘機です。当時、日本最強の戦闘機といって差し支えありません。

その紫電改を優先的に343空に集中配備した手腕もさることながら、同時に高速の艦上偵察機 彩雲で構成された偵察飛行隊も343空に所属させました。そして各戦闘機に、最新の通信機を装備させます。

これによって、強行偵察を行なう彩雲からもたらされた情報が、逐次、司令部だけでなく戦闘機隊にも伝わり、味方に有利な邀撃態勢をいち早く布くことができるという発想でした。

こうした点を見ると、源田が「先制」を可能にする情報と、敵を痛撃できるだけの戦力の「集中」を重んじた、極めて先端的かつ合理的な航空部隊を目指していたことがわかります。

そしてこれほどの新鋭機と装備、さらに人材を一航空隊に集め得たのは、やはり源田自ら頻繁に海軍省に乗り込んで、各担当者の首を縦に振らせた百戦錬磨の押しの強さだったでしょう。そうした意味でも343空は、源田の才能なしには生み出せないものでした。

 

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