大正5年(1916)6月14日、岩本徹三が生まれました。日本海軍において「最強の戦闘機パイロット」と呼ばれ、かの「大空のサムライ」こと坂井三郎が、最も傑出した零戦搭乗員として挙げた人物です。
一説に撃墜数202機。 日本海軍戦闘機隊が誇るエース・パイロットといえば、坂井三郎をはじめ、西沢広義、杉田庄一などが知られます。しかし昭和13年(1938)の日中戦争から終戦までの8年間を、第一線で戦い抜いたエースといえば、岩本以外には存在しません。エースとは、一般に敵機を5機以上落としたパイロットに与えられる称号で、一説とはいえ202機は桁違いです。
大正5年に樺太国境近くで警察官を父親に生まれた岩本は、昭和4年(1929)頃、島根県の益田に移りました。海軍を志した岩本は昭和9年(1934)、19歳で呉の海兵団に入団。航空母艦勤務を経て、昭和11年(1936)、第34期操縦練習生を卒業。晴れて戦闘機乗りへの道を歩みます。
昭和13年2月25日、23歳の岩本は中国戦線で空中戦の初陣を迎え、なんとこの日、4機の敵機を撃墜しました。日中戦争では14機の最多撃墜数を公認されて、下士官としては異例の金鵄(きんし)勲章を授与されています。 やがて母艦勤務に転じ、空母瑞鶴(ずいかく)戦闘機隊員となって、昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃を迎えます。26歳の岩本はすでに古参搭乗員として零戦(零式艦上戦闘機)を駆り、母艦の上空哨戒にあたりました。
翌昭和17年(1942)、インド洋作戦などを経て、5月7日の史上初の空母部隊同士の決戦・珊瑚海海戦に参加します。この時も岩本は真珠湾同様、母艦上空の直衛任務につきますが、次々と襲い来る敵の雷撃機、爆撃機を的確な判断で片っ端から落として母艦を守り、エースの名に恥じぬ戦いぶりでした。
そんな岩本が、南方の最前線の地・ラバウルに現われるのは、昭和18年(1943)11月、28歳の時です。オーストラリアの北、ニューギニアの東に位置するニューブリテン島ラバウルを太平洋戦争中、連合軍パイロットは「龍の顎(ドラゴン・ジョーズ)」と呼んで怖れました。それは地形が龍の顎に似ているだけでなく、その基地から飛び立つ零戦隊の精鋭が待ち構えていたからです。それこそが日本海軍が誇る最強部隊「ラバウル航空隊」であり、昭和18年後半から19年にかけてのラバウルのトップ・エースが岩本だったのです。
とはいえ当時、物量で勝るアメリカ軍は連日、数百機単位の編隊で来襲し、迎え撃つ岩本たちは、敵機より性能で劣る零戦30機程度で迎撃していました。人員の交代はもちろん、機材の補給も滞りがちな、まさに危機的状況だったのです。しかし、そうした中で岩本をはじめとする搭乗員たちを支えたのは、空に散っていった戦友たちが遺した「敵機は必ず、俺たちが落とす」というラバウル魂だったといいます。そして岩本も心身をすり減らしながら獅子奮迅の戦いを続け、機体に描く敵機撃墜の桜マークで、岩本機の胴体後部はピンクに染まりました。
昭和19年2月、ラバウルの航空隊は後方に移動し、6月に岩本は内地に転勤します。すでに内地では腕ききのパイロットは払底し、特攻作戦が始まろうとしていました。やがて岩本の所属する部隊も全員に司令から特攻を打診されます。誰もが観念する中、ひとり岩本は違いました。
「我々戦闘機乗りはどこまでも戦い抜き、敵を一機でも多く落とすのが任務じゃないか。一回きりの命中で死んでたまるか!」
あの時代に、上官にこれだけのことを言ってのける男がいたのです。そこにあったのはまぎれもなく、戦闘機乗りとしての誇りでした。
「理不尽な命令は聞く耳持たぬ。文句があるなら、俺以上に敵機を落として見せろ」
岩本はそう言いたかったのでしょう。岩本はその後、本土防空戦を戦い抜いて、終戦を迎えます。しかし、戦後ほどなく病を得て手術を繰り返し、昭和30年(1955)、39歳で他界しました。彼は病床で日中戦争から敗戦までの足跡を大学ノート3冊に克明に記録しており、その巻末に撃墜数一覧を示し、総撃墜数202機と記しています。
益田の岩本邸を訪れて実物を奥様から見せて頂いた時、衝撃が走るとともに、ある程度誤認が含まれるにせよ、この数字は岩本自身が信じていたものをありのまま記録していると確信しました。
更新:11月21日 00:05